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case4千賀健史 〈まず、自分でやってみる。〉

 いつのどういった作品であれ、写真家はその対象となる事物における真相を(真実?何と言って良いかわからない)見出そうとしてきた。それは予め撮り手の中にあった知識の表出・表明することではなく、写真行為の中で見出されてきたものへ向かうということだろう。そのプロセスは、行為の結果として現れてくる表面と対面する事で(自身で撮り表したものであるにもかかわらず)、ことの真相を得る。おそらく、行為の諸々の途上ではその真相の裾を掴む程度で、確信には至らず、写真その表面を得て至るということだろう。つまり、リサーチのその時や撮るその最中には真相に至っていないのだろう。
 写真家が得た真相、オーディエンスがそれに触れるには表面に対して論理的なアプローチだけでは足りず、対面することで現象的に何らかを得ることが必要に思う。何故なら、当の撮り手自身も論理的なアプローチのみからではなく、真相は自らが得た写真との対面を経て得ているからだ。
 千賀が得た真相に触れる為に、私も表された表面との対面によって、現象的あるいは生理的にか、もしくは身体の反応として立ち現れてくるものに注視したいと思う。
 私が実際に展示を見て感覚した事は以下のような事だった。

1 撮り手の視線や恣意的なものの沈殿
 本作以外の『上階のスティグマ』にしても『マダラの犬』にしても、作者本人の体験が背景となっているが、その体験は(ハイジャックジーニーにしてもそうだが)いずれも特殊な体験と言える。しかし、作品と対面する時、その体験に基づいた撮り手の感情のようなものを受け取ることができない。撮られた距離や視線の中にそれが見出されても不思議がないはずなのに、それを見出そうとしても、情動が鑑賞者としての自身の内に見当たらない。これはつまり、本作における鑑賞者として持つ動きとしては写真を表現物としてではなく、資料として受け取ろうとしているということだろう。その結果、稀有な経験から生み出された作品は、鑑賞者にとって我が事となる。自分の存在する社会(世界)の数多ある出来事の一つとしての受け入れが起こる。作品によって見せられていることは、我々のこととなる。

2 写真の嘘についての同意
 本作が扱っている問題上、詐欺や詐術ということを頭によぎらせながら展示を見ていくことを余儀無くされる。また1に付随して、あたかも詐欺集団のドキュメンタリを見ているような錯覚が起こる。その結果、オレオレ詐欺の詐術と写真が引き起こす錯覚の中に、作品に二つの嘘の並行を鑑賞者は見出す。この自覚がもたらすのは、写真の嘘への同意である。常に語られる問題ではあるが、裏を返せばそれは写真に対して我々がとってしまう無意識に引き起こされる態度ということだろう。

3 水に溶けたモノクロのポートレイト
 2の同意の後では矛盾することになるが、ボロボロのポートレートを見ている時に去来していたのは、「写真を見ている」という感覚だった。それは厳密に言えば、写真として見ようとしているか、自分がそのように見ようとすることを止められない、ということだ。さらにその中に踏み入っているみると、それは写真への信頼に起因している。これは無意識か、あるいは身体の反応ともいえる。あるいはこれを呪術ともいうのだろう。日々重ねられてきた結果、写真の記録性と情報性に対して信用が先立ってしまう。それが写真であると信じながら見るということの中身は、記録性・情報性への信頼だろう。表面にあるであろう情報を走査しようとすることを止められない。

 上記3つの感覚に繋がる事として二つの事が浮かんでくる。それは、A「リサーチベースとはなんだろう?」という疑問と、B鑑賞者として「作品との間にどんなコミュニケーションが起こった?」という質問である。

・Aについて
 この作品がそうであるように、リサーチベースの作品はその性格上、濃度の違いはあるにせよ、鑑賞者から資料として受け取られる視線の発生を避けられないのではないだろうか。その仕組みを考えるにあたって、写真の他の手法であるロードリップを引き合いに出してみたい。ロードリップは、地上を行く乗り物で撮影地へ向かい、その道中の景色の変化をその身に受け取っていく。その結果、日常とは異なる場所という意識を持つことで、日常とは異なる自身の反応を引き出そうとするものである。つまり自身の感覚のコントロールであり、感覚に依拠するものである。写真は撮り手の反応であるということがあるが、反応の大部分は感覚が占めている。そうであるなら、リサーチベースもまた、リサーチベースによって得た感覚が写真の表面に反映されるはずである。リサーチベースによる写真は事態の資料的な様相を持つ、撮り手の感覚を抑制した表面を持つ。この様な表面の獲得のされ方は、おそらくこうだ。調べることというのは、起こり得たケースに対していずれも客観的に行われる。つまりその事態に対して、撮り手はそもそも資料的な視線を投げかける。千賀においても、稀有な経験に対して“稀有な”という部分を削り取り、事実一般として見ようとしたということだろう。消すことは不可能だろうが、こうして感覚を抑えることをリサーチベースは呼び込む。おそらくこれがリサーチベースの効果である。その結果、資料として扱うということが鑑賞者に伝播し、そのような鑑賞者の写真への視線を発生させているということだろう。他の言い方をすれば、資料として見つめる視線が写った写真を生み出すことがリサーチベースであると言える。このことが鑑賞者に自分にも起こり得るか、もう既に所有していることとして、「一般=我が事」ということを呼び込むのだろう。

・Bについて
 そもそも資料としての受け取り方はリサーチベースということ以外にも、その引き金となるものがありはしないだろうか。資料に見えるというのは、〈このような資料を見たことがある〉に起因している。率直にいうとそれは、刑事ドラマやサスペンス物の映画などである。我々は実際に事件の資料を目にすることなどは無い。しかし、描かれるドラマの中ではこれを見たことがある。上記の感覚の主たる原因はこの繋がりによるものだ。つまり、その身にストックされた記憶の想起によって上記三つの感覚は去来していた。千賀によって描かれた物語を、かつて自身が観た物語によって、事実に誤認(写真に騙される)したのだ。
 かつて見たドラマや映画がどれであったかは判別出来ないし、その物語の内容自体も覚えていない。残っているのは、犯罪捜査の資料として写真が使われていたという記憶である。この"特定"の欠如と広く一般に流布されたことが相まって、犯罪捜査には写真が資料として使われるということが概念として根付く。作品の鑑賞の中で想起されたのはこの物語由来の概念である。つまり、本作との間に起こったコミュニケーションとは、かつて見た犯罪捜査のための資料としての写真の使われ方の想起であり、これを通して起こる写真に騙されることの体験だったと言える。
 こうして眺めると本作はセットアップのようでもあり、特定出来ないかつて見たドラマのアプロプリエーションのようでもある。これらの共通項を掬っていくと、モデルケースということになるだろう。しかし、"特定出来ない"ということが効いているのか、形成素としてのドラマ自体の虚構という性格故か、想起されるのは概念したことのみとなる。
 かつての画像体験が本作を資料的に捉えさせることのもう一つの要素は、資料の様に見せかけられたということである。我々は厳密にはどちらにおいても(本作でもかつて観たドラマでも)本物の資料を見ていない。資料とされた事を見たのみである。そして、これが起こることの根幹には偽物でない本物の資料を扱った経験から得た、資料がどういうものであるのかという概念を持っているからである。資料らしきものが既に有していた資料に対する概念と結び付くことで、資料として結像したのだ。このような虚構から得られて概念らしきものは、擬似的な概念といえるだろう。この擬似的概念の役割はこれを有する者を誤認へと導くこととなる。
 これらのことが以下のような関係性を浮かび上がらせる。
映画・ドラマ=千賀健史によるドラマ
オレオレ詐欺=写真の詐術
リサーチベース=我が事
我々のドラマ=社会


・A+B
 AとBを同時に眺めてみると、作品に存在する描かれた4つの線が現れる。そして、それらが関連しあっている様が見出される。
線1はオレオレ詐欺の詐術。
線2は写真の嘘。
線3はリサーチベースによる資料化。
線4はアプロプリエーションによる資料化。
 1と2、3と4はそれぞれ平行線状である。1と2は"嘘"という方向を持つ平行線である。3と4は一般化という方向を持つ平行線である。2は3と4を強化する。2によって強化された3は、4が真に何のアプロプリエーションであるかを覆い隠す。3は1をも資料化する。1と4はかつて観たドラマを由来としている。4によって1はかつて我々が観たドラマの存在を浮かび上がらせる。4は2をも資料化する。
 
 複雑さを持たない位相へ移してみよう。それは、4つの線が交点を持つ位相である。
1~4は虚構というキーワードを共通点として持つ。
1→詐術という虚構
2→写真への信頼からくる虚構
3→詐術をリサーチ
4→虚構としての振る舞い
 この交点は4つの線それぞれの起点にもなっている。二組の平行線はそれぞれに干渉しあい、強化の作用と資料化によって、虚構を起点としていることが覆い隠されていく。

 二つの位相から導かれるのは、本作は我々に偽られることのパースペクティヴを見せていたということである。オレオレ詐欺という事象以後である現在の地点から、経由された地点の向こう側に起点となったドラマが存在したことが見えてくる。経由地点でドラマは多者間で共有される。また類似の多くのドラマと統合され、ケース化していく。そうする中で、それぞれのドラマは物語であることが忘れさられることで、事実的に捉えられていく。更に、すでに持ち合わせた概念と結びつくことでドラマの中の出来事は加速的に可能的な事象へとすり替わっていく。こうして、かつてドラマだったものは現在の我々の地点で、擬似的な概念らしきものになっている。つまり、ドラマは白痴されることで擬似的な概念へと変化する。
 四つの線の起点はどれも虚構からスタートしている。つまり、騙されることの一連は虚構から始まり、共有によって情報的になることで一般化が進み、絵空事は可能的なものとして信じられていく。白痴であることを考えると、信じるということでもなく、ほとんど反射的に起こり得る事とにすり替わっているのかもしれない。
 当然全てのドラマがこの擬似概念化を果たすわけではないだろう。虚構であるものが起こり得る事象として一般化された時のみこの現象は起こる。我々の社会で起こり得る事と成らなければならないのだから、実社会を背景に持つ物語であることがその条件となる。ここで重要なことは虚構の出発点が我々の実社会だという点である。こう言うことができる。「我々の社会は既にその虚構を所有していた」と。つまりその物語が紡がれる用意が我々の社会には既にあったのだということだ。オレオレ詐欺の発生や成立といったことを我々の社会は既に所有していたのだ。何故なら、虚構を擬似的とはいえ概念化することを一般化が担っているからだ。そしてその一般化とは社会化を指すからだ。
 オレオレ詐欺に偽られるというのは、我々の社会がこの擬似概念化に根差しているからだというのは、言い過ぎだとしても、我々の今の社会が概念を重要なパラダイムとしていることは否定できない。そのパラダイムの形成に白痴のために概念と見分けのつかない擬似的概念が参入してくる。そうすると、社会と擬似的概念を生み出す虚構は循環的な関係であることが見えてくる。つまり、社会が擬似的概念を生み出す虚構の発生に一役を担い、そうして生まれた擬似的概念がパラダイムの一部として組み込まれていく。騙されることのパースペクティブが見せているのはこれである。全てということができないのかもしれないが、これが我々の社会の構造の一部分である。
 擬似概念化は我々の社会が予め持っている機構の一つなのである。この一連の概念化を我々の反応と捉えると、社会はこのような反応を持つ我々によって作られているということができる。そして、そんな我々の社会がオレオレ詐欺の発生を予め担保していて、さらにそれが循環的であるということは、我々は物語・虚構によって社会を築いていくということを含んでいる。このことは社会が白痴という我々の不能性によって作られているということではなく、自由な発想や想像という性質を持つ物語の生成によって社会を拡張していくという事を人が必要としたのだと結論したい。

 以上が本展・本作の私が考える概要となる。しかし、社会の構造以上のものがこの展示の中に現れているのではないだろうかという気がしてならなかった。写真のことを見せられている気がした。それを思わせたのは、ボロボロになったポートレートのモノクロとカラーのそれぞれが違う感覚を呼び起こしていたからだ。両者はその損傷の度合いはかなり異なるが、もとは同じくポートレートであって、与えられた状態も損壊・損傷であり、どちらも写真である。そうであるならば、同じかそれに近い感覚を持つものと思われるが、実際これらに対峙する時、やってくる感覚は次のように違った。モノクロの方は、写真として見ることを止められない。一方、カラーの方は最初、写真として見ることを強いられるような感覚があった。ところが、写真であるかどうかという疑いを排除してから見ると、それは物質的に感じられ、損壊してもなお残る写真としての痕跡の混じり合った状態か集合体のように見えた。

我々は事実的に写真を認識しているのだろうか。それとも実存的に写真を認識しているのだろうか。

 私は、はっきりとよく分かってはいないものの、これらの感覚は写真であるという実存か事実によって呼び込まれているのだと思っている。モノクロの方にあった私の反応は、事実性によって得られたとも言えるし、実存として在るから起こった反応であるとも言える。カラーの方では、写真とは見受けられないのだが事実性を有するので、写真として見ることを強いられているような窮屈な感覚がある。この窮屈さを納めるために写真らしさを探そうとしてしまう。例えばそれは写真らしい情報性などである。しかし一方で、写真らしさを探すのを止め、実存的に写真であるとした時には表面の美しさを見出したり、自由に受け取れるようになる。
 前者は葛藤の中で、後者は疑う余地のない状態に支えられてという状態での鑑賞ということだろう。言葉を変えて見ると、前者は示されている情報を探そうとする中で、後者は何が現たかを感じ取ろうとする中での鑑賞となる。もう少し踏み込むと、前者は我々として、後者は私としてとなる。そして最後は両者を合わせ、それは何であるかということにたどり着く。

 事実は籠を作り、実存は羽ばたきを与える。これを並置してみると、両者は等価になる。籠は羽ばたきを呼び、羽ばたきは檻を呼ぶ。一方は一方の発生に関わり、相互に意味を与えているようだ。比較を止め、並置して見ることで、関係性が立ち現れてくる。どちらか正しさを求めるのは止め、並置して見ることに託してみると、実存的な写真と事実的な写真の二種類があるのではなく、写真一枚の内には実存と事実性が並置して在るように思える。
 この並置が何を現すのか、それは現時点の私にはわからない。しかし、モノクロとカラーのポートレートに対して起こって感覚は、両者が並置して等価に示されることがその呼び水となった。展示全体を見渡すと、虚構と現実、描かれる物語とその材料となる実在する事物、それらはどちらかを選び取られるように在るのではなく、実社会の中で並置して存在していることを本作は見せていると思われる。本展は並置が多層的に構造された展示だったのではないかと思う。そのためパースペクティヴな感覚を覚えたのではないだろうかと思う。私が感じていた写真のこととは、写真は事実性と実存性を並置して持つということだったと思われる。


 我々は長い間、二元論の中で戯れ、相対的に物事を捉えてきた。ひとつきりの太陽が存在するこの太陽系では、それは無理からぬことだったのだろう。しかし、写真に準えて私はこう思う。かつてフルッサーはホモ・ルーデンス達が写真を拡張していくと予言した。今現れ始めた彼等は、我々に馴染みの考え方から解放されていて、並置的に物事を捉えているように私には見える。それは一つの進化と言って差し支えないと思う。そして、これから人類が歩むのはそうした並置的な捉え方の世界だと思う。我々の銀河には太陽が一つでも、同じようにひとつきりの月を九つ(あるいは八つ)と見出すことも出来たのだから、その進化は可能な道であると思う。写真が時代を写す鏡であるなら、ホモ・ルーデンスの1人である千賀が示す本作はこの並置が現された、次の時代への目覚めを促す呼び水となる作品(展示)だったのかもしれない。そして、こう付け加えたい。それはポジティブなことであると。何故なら、カラーのポートレートは私には美しいものとして見えたし、実在によって導かれる多様な想像は、居心地の悪い不確定さではなく、来る未来への自由な様相を感じるからだ。少なくとも、何かに比べて良い悪いと導かれるものではない。

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