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我々はフジモリメグミ、田凱、馬場智行の三人から成るアーティストコレクティヴglitch…

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我々はフジモリメグミ、田凱、馬場智行の三人から成るアーティストコレクティヴglitchです。 ここでは、”写真とは…“を探す我々のメソッドの一つ、<書くこと>を展開してまいります。 ここでの<書くこと>を経て、もう一つのメソッド<話すこと>に入っていきます。

最近の記事

case4千賀健史 〈まず、自分でやってみる。〉

 いつのどういった作品であれ、写真家はその対象となる事物における真相を(真実?何と言って良いかわからない)見出そうとしてきた。それは予め撮り手の中にあった知識の表出・表明することではなく、写真行為の中で見出されてきたものへ向かうということだろう。そのプロセスは、行為の結果として現れてくる表面と対面する事で(自身で撮り表したものであるにもかかわらず)、ことの真相を得る。おそらく、行為の諸々の途上ではその真相の裾を掴む程度で、確信には至らず、写真その表面を得て至るということだろう

    • case3坂東正沙子 〈Yamatogawa Riv. II〉

       作品を作り終えた時、あるいはその最中、撮影の対象となる物や景色についてある種の体感的な理解を得ている。 「撮る」ということは「録る」でもあり、「取る」や「採る」ということでもあるようだ。そして、それによって現れたものは、知ったことの顕れであり、撮るを繰り返し、知るは識るとなる。  川の流れは、時の流れに例えられる。その流れのうち、巨大なものは時代とされ、歴史という言葉と結びついていく。小さなものは、取り留めのない日々の出来事の連続のようなものであり、その様なものは個人の中

      • case1 フジモリメグミ <アラウンドスケイプ>

         フジモリメグミのアラウンドスケープは彼女の視座を感じさせる。事物は並置されているという捉え方だ。女性だからかもしれない。男性は物事を相対的に二元論的に見る傾向があるのかもしれない。(あるいは、展示に添えられた言葉に導かれてかもしれないが…)  "日常の貴重さ"という彼女の言葉には日常と非日常の別がない様に思える。フォークロアでいうところのケの日とハレの日。ハレの日は膨大なケの日の時間に現れる特異点のようで、ハレの日の為にケの日を生きる。ハレの日によって連続するケの日は途切れ

        • 序章

           我々glitchは、写真とは何かという問いに対する一定の答えを得るために始められたコレクティヴです。  その方法は、"写真とは?"に射程を持つと思われる作品、つまり写真そのものについて見せられていると感じる作品を対象にし、その作品から写真そのものについて現れているものを探し出し、これを集めます。言い換えれば、"写真とは…"に続く言葉を対象となる作品から発見し、得て行きます。この言葉が我々のもとに蓄積された時、我々は写真とは?に対する答え、或いは応えを得ていると想像し、この活

        case4千賀健史 〈まず、自分でやってみる。〉