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僕が見た被災地のこと(その3)

2月7日から約1週間、災害ボランティアの一員として僕は石川県輪島市に行ってきました。この記事は、そのときの経験について僕が感じたことなどを綴っていくシリーズの第3回目となります。今回の記事では、現地入り当日の様子と実際の活動についてお話ししたいと思います。

現地入りが簡単にいかない

2月8日午前7:00頃に石川県白山市の集合場所を出発した僕たちボランティア集団は、輪島市の避難所(輪島小学校、輪島中学校、輪島高校、JAわじま)がある地域を目指しました。一部寸断していた高速道路が突貫で補修されたことにより、それまで5時間程度かかっていた移動時間が3時間半程度まで短縮される見込みだったのですが、途中2か所で長い渋滞に巻き込まれ、目的地到着まで結局5時間かかりました。

渋滞1か所目は警察の検問地点。
僕らの車両は「災害支援」の登録がしてあり、車両の両側に黄色地に黒文字でそのことを示すステッカーが貼ってありましたのでほぼ素通りでしたが、検問のところで高速道路から一般道に降ろされる車両も多く見られました。何のための検問かは正確には分かりませんでしたが、上記の状況から推察するに恐らく、道路状況が改善されたことによる一般車両の大量流入を制限したかったのでしょう。その時はまだ受け入れの体制が十分整っておらず、一般ボランティアの活動は開始に至っていませんでしたから。検問を抜けるのに小一時間はかかったと思います。

もう一か所は、高速道路の出口と一般道の合流地点。
自宅を離れて他県等に自主避難されている方等も含むだろうと思いますが、救援物資輸送のためと思われるトラックや一般車両が長蛇の列となって一般道を埋め尽くしていました。高速道路から降りた僕らの車両は、隙間を縫いながら合流していきます。ここでも、渋滞を抜けるのにやはり小一時間はかかったと記憶しています。

道中、運転手さん(地元の方)と会話する中で、震災のことについてその方のお考えを色々と伺うこともできました。
曰く、東日本大震災の時は何より被災地周辺のインフラがしっかりしていた。能登地震では、まずインフラ面での脆弱性が復興に向けた支援の足枷になっている(東日本大震災の時よりも各段にスピードが遅い)。何よりも日常が失われた中で生計の手段がなくなってしまった人は、生きる糧(仕事)を求めて他県に転出せざるを得ない。実際に多くの方が地元を離れてしまい、残っているのは高齢者が多い。そして地域の過疎化と高齢化がさらに加速される。そんな地域の復興にどこまで注力するのか、あるいはしないのか。。。

ボランティアを送迎する車両を運転して震災の現場に通い、復興支援の一端を当事者として担っていた彼は、「インフラ面での制約があったとしても、いくらなんでも復興支援のスピードが遅すぎるでしょ。何とかならんのかね。」と皮肉を言いたかったのかもしれません。彼はきっと今この瞬間も、被災地のためにご自身ができることに一所懸命取り組まれていると思います。

日本全国、どこに行ってもそれなりにインフラが整っているイメージを持っている僕にとって、東日本大震災の時の復興スピードを思い返すと、確かに今回は「遅い」と感じていました。震災後1か月以上経っても民間ボランティアの受け入れ態勢は整っておらず、瓦礫の撤去すら始まっていないのが2月8日現在のリアルな実態でしたから。。。

そして実際に輪島市の避難所での活動を始めてから、そのことをより強く実感することになったのです。色々な葛藤もありました。

何だか、思い出すだけでも気疲れしちゃいますね。。。ということで、実際の活動の様子や僕の情動については次回以降に譲りたいと思います。
今回もお付き合いありがとうございました。
それではまた!

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