そのシルエットを、その輪郭を、その線を

レビュー:桜木ネル著・ぽんぽんぬんイラスト『雨あがりのハレ』(雅風総本家「Blue Archive -Garden of Ark-」#5)

本作(以下『ハレ本』)はサークル「雅風総本家」のブルーアーカイブシリーズ「Garden of Ark」5冊目にあたる。前作『白石ウタハは恋するマイスター』(以下『ウタハ本』)は『ハレ本』と表裏の関係にある世界線、いわゆる別√の内容である。さらに言うとこの「ハレ√」と「ウタハ√」は、コピー本『白石ウタハと小鈎ハレのシャーレ改造計画』のその後のありうる二つの展開にあたる。

さて、『ハレ本』のもっともおおきな魅力は、ソシャゲ『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』の本編ストーリーに、プロットとキャラクター造形を接続する際のなめらかさである。ハレ推しであるとないとにかかわらず、『ブルアカ』ユーザーなら誰しも膝を打ちたくなる当意即妙なフレーズと展開が綿々と続いてゆく。主人公である「先生」主観でプレイしていた『ブルアカ』のストーリーについて「他の視点でみるとこう映るのか!」という新鮮な驚きにひっきりなしに打ちのめされる。また、ゲーム本編の内容と『ハレ本』オリジナル要素の繋ぎ目はどこまでもシルキーで、けれども『ハレ本』の筆致が及び腰かというとそうではなく、挑発的と言えるほど踏み込んだ解釈も随所に織り込まれる。だからこそ、読了後にあらためてそのシルキーさ具合に、打ち震えることになる。

『ハレ本』は、『ブルアカ』の全ユーザーがじゅうぶん楽しめる一品に仕上がっているのはまちがいない。ハレ推しでなくとも、ヴェリタスフリークでなくとも、ミレニアムクラスタでなくとも、おもしろいままに読了してしまうだけのクオリティは悠々とクリアしている。読み終えたあとに、この著者が『ブルアカ』村に逗留してくれてたことに幸運を感じずにはいられないだろう。

[以下、ネタバレあり]


たとえば、『ハレ本』の冒頭は以下のように始まる。

私には好きな瞬間がある。
入館システムの通知音に高鳴る胸。
すぐに仕事を放り出して、マグカップを用意する。

『ハレ本』p. 4

よく彫琢されたフレーズでリズムが小気味よく、未知の物語への導入として適度な摩擦係数が設定されている。言い方を換えるなら、おもわず口ずさんでみたくなる詩行である。それに続くのが以下の場面である。

「私の予想より約四三秒早く到着したね」
「その四三秒って何?」
「先生が誰かに声をかけられて立ち止まる時間の平均だよ」

『ハレ本』p. 4

『ブルアカ』ユーザーであればこの箇所を読むだけで、さきほど指摘した「ゲーム本編の内容と『ハレ本』オリジナル要素の繋ぎ目のなめらかさ」を納得できるだろう。ことほどさように、著者の眼光は紙背に徹しており(いや、ソシャゲなので媒体は「紙」ではないけれど)、『ブルアカ』の断片がオリジナルな解釈へと紐づけられるたびに、その結び目の整い方におもわず息を飲む。この点をふまえるなら、『ハレ本』クライマックスはまさにゲーム本編「エデン条約編3章」と密接に接続されているという事実に、未読の方々の期待値は一気に高まるのではないだろうか。


さて、最初にも述べたとおり『ハレ本』と『ウタハ本』は表裏の関係にある。つづめてしまうと「ウタハとハレが先生に同時に告白し、その先生の選択によって分かたれるふたつの√」である。そうなると、畢竟、ウタハとハレというふたりのヒロインを比較する見方とともに、『ハレ本』と『ウタハ本』というふたつのテクストを比較する読みも招来される。わたしなりに『ウタハ本』と比較して、『ハレ本』に認められる際だつ価値として、以下の三点を挙げたい。

まず、ヒロインであるハレのキャラクター造形がよく整理されて風通しの良い仕上がりになっている点である。

私の耳元に身を寄せて部長が囁く。
「今日は雨です。でもそれは、ハレにとって有利なことかもしれませんね?」

『ハレ本』p. 31

「ハレは白もよく似合うね」

『ハレ本』p. 34

こうしたフレーズの積み重ねをとおして、ハレが内包するギャップの輪郭に縁取りがなされていく。ごく自然な対話をとおして、ハレがみずから反転する瞬間、もしくはハレが世界を反転させる瞬間が準備される。良質な日本語によって練り上げられるこのヒロインの個性は、ひと言で述べるなら裂け目を内に含んだ脆さであり、その裂け目がもたらす風通しの良さである。『ハレ本』表紙絵に描かれたハレの姿も、まさにこの裂け目をヴィジュアル化するものであり、テクストとよく響き合う素敵な仕上がりなのでぜひ確認してもらいたい。表情と装いのフラットさと奥行きが同時に成立していて、目に心地よいのである。

ふたつ目は、ハレが所属するヴェリタスというハッキンググループ内の描写である。メンバー同士がデートに臨むハレを心配してあれやこれやと気を揉み、ドタバタと慌てるシーンは、『ハレ本』をとおしても右に出る箇所がないくらい魅力あふれる場面といえる。どこを引用してもおもしろいし、楽しいので、敢えてここでは参照せずにおく。いずれにせよ、掛け合いのテンポ感やフレーズの洒脱さはじつに秀逸で、この場面のみを切り出してもひとつの作品として成立するのではと思わせるほどの出来に感じられる。

三つ目は、クライマックスにおける『ブルアカ』本編との結び目の鮮やかさである。

【ハレ、聞こえるかい?】
「聞こえるよ、先生!」
【出し惜しみなしで行こう。・・・・・・

『ハレ本』p. 98

上記引用箇所に続くのは『ブルアカ』に登場する複数のキャラクター名なのだが「なるほど、このメンバーか」と思わせる。じつに味わい深いセレクションである。また、この前後の展開も「エデン条約編」を読み終えたユーザーであれば、一気に巻きこまれて高揚できるほどのドラマチックなプロットになっている。『ウタハ本』は執筆されたタイミングも相まって、ここまでガッツリ本編に合わせ込むストーリーとはなっていない。それゆえ、二つの作品のクライマックスを比較した際に、『ハレ本』のそれのほうが、より一般ユーザーに訴求する力が強いのではないかと推察する。


では、わたしは『ウタハ本』と比較して『ハレ本』を圧倒的に高く評価しているのかというと、じつはそうとも言い切れない。『ウタハ本』には『ハレ本』にはない得がたい魅力が複数織り込まれている。ここであえて正直に述べるとすれば、テクスト単体としての完成度は『ウタハ本』のほうが高いのではないかとさえ考えている。

その最たる理由は、さきほど触れたクライマックスの展開の差にある。『ウタハ本』のラストには、ミレニアムサイエンススクールの生徒会長リオが演説する場面が示される。

ちょうど生徒会長のリオの演説が始まろうとしたその瞬間、映像が揺らいだ。

『ウタハ本』p. 98

そもそもリオは『ブルアカ』本編にもいまだほとんど登場しておらず、ミレニアムタワー前広場におけるこの場面は、純粋に著者の創作である。『ハレ本』の魅力のひとつに数えていた、『ブルアカ』本編との結び目は、ここではそれゆえ相対的に緩まる。それにもかかわらず、この「演説」場面の描写は、まちがいなく出色の出来である。これは本稿でもっとも強調したい点である。スピーカーから聞こえてくるくぐもった声音、液晶モニターの色合いや揺らぎ、広場の群衆のさざめき、それらが紙面からいっせいに立ち上がる。

余談だが、このシーンでわたしの脳裏をよぎったのは、『機動戦士Zガンダム』第37話「ダカールの日」と『鉄腕バーディー DECODE:02』第7話「WE WILL MEET AGAIN」という、それぞれのタイトルにおける神回と名高い話数だった。それらアニメ作品の名シーンを想起させるこのテクストは、優れて「ヴィジュアル的」である。文字の向こう側に視覚的情報を「ひとつの場」として立ち上げる力が、この著者にはある。『ウタハ本』のラスト、その騒然とした雰囲気のなかで、「サブヒロイン」に甘んじるハレは、いっそう小気味よく立ち回る。その凜々しさに胸が苦しくなる。

端的にいうとすれば(そしてわたしの恥と外聞がうち捨てられるとすれば)、本作『ハレ本』のハレよりも、前作『ウタハ本』のハレのほうが、より好ましく映るということになるのかもしれない。さらに言うなら、じつはそれは他のキャラクターも同様で、ウタハにせよ、ヒマリにせよ、主要な登場人物の描写は『ハレ本』よりも『ウタハ本』におけるそれのほうがよりシャープかつクリアで、挑発的かつ韜晦的である。

とりわけヒマリのキャラクター造形は、『ウタハ本』のそれのほうが圧倒的に奥行きがある。言い方を換えるなら、ウタハが練り上げる機械系エンジニア的精神が、ヒマリのIT系エンジニア的精神と衝突し、相克し、補完する一連の問答がとても魅力的である。それに対して『ハレ本』のヒマリは、どこか「ビッグシスター」的な顔を覗かせる瞬間がある。それはそれでとても好ましく、ハレ推しのわたしからすると心の底から安心できる描写なのはまちがいない。

思えば著者はあとがきにおいて、ヒロイン候補ふたりとヒマリとの関係の差が内容に反映されている可能性を示唆していた。たしかにそれはそのとおりだと思う。つまり、ヴェリタス部長のヒマリと対峙せざるをえなくなった瞬間、ハレはそのしなやかな立ち居振る舞いに軽い制限がかかるということなのではないか(もちろんこのことはヒマリに対しても同様に当てはまる)。

当然のことながら、『ウタハ本』にも小さな瑕疵はある。それは先生の描写がやや弱く、ヒロインと結ばれる説得力に欠けるきらいがある点である。その点については『ハレ本』に軍配が上がるとわたしは考えている。ただ一方で、このようなソシャゲの同人小説における主人公(先生)の描写には、抜き差しならない困難がともなうのも頷ける。これは構造的な問題とも言えるので、筆者の瑕疵などではないことも指摘しておきたい。

話を戻すなら、『ハレ本』の魅力は原作に寄り添うその真摯な手つきにあり、『ウタハ本』の魅力は原作に寄り添いつつ最後の一歩で跳躍するその飛距離にあった。寄り添うにせよ、跳躍するにせよ、それぞれけっして容易くはない課題である。だからこそ、同人小説はスリリングである。寄り添うことと跳躍することは相反することであり、それでもなお、同時に遂行することが求められるのがこのジャンルなのだと理解した。・・・・・・そうしてわたしは、ようやくこの二冊の価値を精確に見積もることができたように思う。


『ウタハ本』の健気だけどかわいそうだったハレは、『ハレ本』でしっかりゴールにたどり着いた。一介のハレ推しとしては、本懐を遂げさせてもらった感が強い。推したのがこの子で良かったと思う。『白石ウタハと小鈎ハレのシャーレ改造計画』も含めて三つのテクストがそれぞれの角度で照射してくれたハレのシルエットを、その輪郭を、その線を、これから先の道しるべとしてたどっていきたいと思う。


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