思えば浅草は「塔」の街だった
横浜でIUのライブ、のはずが、チケット争奪戦に敗れ満身創痍のふたりはなぜか浅草にいた。
やっとのことで休暇を死守したふたりである。このままやられっぱなしというわけにはいかない。せめて、なにかおいしいものでも食べようではないか。まあ、そういうわけである。
多少の論理の飛躍は、この際気にしないことにする。
健康的で気取りのない、いかにも庶民のための
向かった先は「天藤(てんとう)」というお店。六区の一角にたたずむ小さな天ぷら屋だ。
さすがに週末の浅草の人出は常軌を逸したものだったが、時間をずらしたおかげで待たずに席に着くことができた。
店内で待つことしばし、運ばれてきたのは海老3本、きす、茄子、ししとう、それに大きなかき揚げという山盛りの天ぷら。定食はこれにご飯とお味噌汁、それにお新香がつく。
天ぷらの衣は色白であくまでも軽くというのではなく、ごま油で揚げたしっかりした色と食感。これぞ浅草の天ぷらという感じ。健康的で気取りのない、いかにも庶民のための天ぷらだ。
箸袋に印刷されているのは「創業明治35年」という文字。浅草の古い天ぷら屋には屋台出身の店が多いと聞く。この店もやはりそうなのだろうか。
そういえば、この店について書かれたレビューのひとつに「胃もたれしない」と書かれているのをみた。
じっさい、お腹ははち切れそうだったが胃もたれはしなかった。町のうわさは本当だったのだ。
「天藤」を出て、パンパンにふくらんだお腹をさすりながらこれといった目的もなくぶらぶら散歩する。まだコロナ前とまではいかないが、それでもじゅうぶんすぎるほどの賑わいだ。
なんちゃってインバウンド
映画『パーフェクト・デイズ』に登場した伝法院通りの古本屋は閉まっている。
観光客向けのみやげ物屋に混じって、もんじゃ焼き、京都の抹茶カフェ、神戸の靴屋、韓国のホットドッグなど混然一体となって建ち並ぶさまはまさに浅草ならでは。大正期、浅草オペラ全盛期の頃から受け継がれる街のDNAは健在だ。
ちなみに、もんじゃを東京名物と思っているひとは多い。間違いではないけれど、もともとは東京の東側、城東地区限定のローカルフードだった。東京育ちのぼくも、高校時代、城東地区に暮らす友人に連れて行かれるまで「もんじゃ」の存在は知らなかった。食+文化というのは探ってゆくとおもしろい。
ぶらぶら歩いているうち隅田川に突き当たった。隅田公園では恒例の「桜まつり」が絶賛開催中。が、桜はまだ0分咲き。それでも花見(?)に興じる人びと多数!なんともシュールな光景だ。
せっかくなので、東武鉄道の鉄橋下にできた「すみだリバーウォーク」を渡って東京スカイツリーのある対岸をめざす。水面もちかく、なにより歩行者専用なので吾妻橋や言問橋を渡るよりずっと清々しい
ふだんほとんど来ることのない本所界隈を歩けば、気分はすっかり〝インバウンド〟。吾妻橋を渡って浅草に戻ると、勢いあまって松屋デパートの屋上展望台にも登ってみる。
じつはここ、絶好のビューポイントなのだがなぜかあまり人が来ない穴場になっている。20時まで営業しているので浅草見物の〆におすすめ。
川端康成と「紅団」のいる浅草
ところで、この時計台をもつアールデコ様式の建物が竣工したのは昭和6(1931)年のこと。吾妻橋の竣工とおなじ年だ。
じっさい、昭和4(1929)年から翌年にかけて新聞に連載された川端康成の小説『浅草紅団』では、当時この界隈でもっとも高い建築物だった「地下鉄ビル」からの眺めとしてつぎのように描かれている。
ここにある「東武鉄道浅草駅」というのが現在の松屋デパートの建物。吾妻橋はようやく仮の橋が架かったところ。東武鉄道の鉄橋や隅田公園はまだ工事中だった。
そして、『浅草紅団』にひんぱんに登場する「教会の屋根の鐘楼のような、円いコンクリイトの」尖塔をもつ地下鉄ビルは他の建物よりも早く昭和4(1929)年に竣工している。建物の2階から5階までが食堂、7階と8階が展望台となっており東西南北にひとつずつ眺望を楽しむための窓があった。
つまり、関東大震災で壊滅的な被害をうけた浅草の街が、震災以前とはあきらかに異なる相貌をもって眼前に立ち上がってくる、その様子をまさにリアルタイムで速記したのがこの『浅草紅団』という物語である。
――「でも、十二階のあった時分の私ってものは、どこの世界へ、どう消えちゃったのよ?」登場人物のひとりである〝不良娘〟弓子に、川端はそう言わせる。
ここで十二階とは、関東大震災によって倒壊したかつての浅草のランドマーク「凌雲閣」のことである。
さらに、弓子はこうも言う。――「私は地震の娘です。地震の真ん中で生まれ変わったのよ」。旧態然とした価値観をいちはやく脱ぎ捨て、新たな姿に生まれ変わろうとする弓子の姿に、まさに変わりゆく浅草という場所を重ねあわせて見ていたのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えているうち、鼠色の空からぽつりぽつりと雨が落ちてきた。ぼくらは、アーケードを縫うようにして「FUGLEN ASAKUSA」をめざす。北欧ノルウェー発のカフェだ。
到着したときには満席だったのだが、絶妙なタイミングで2階のテーブル席が空いたのはラッキーだった。チケット争奪戦では「お座席を確保できませんでした」というメッセージばかり見せつけられていたのに。うまくいかないものだ。
「塔」の街・浅草
もともと浅草は夜が早い。雨が降り出したこともあり、カフェを後にしたころには「花やしき通り」を歩く人影もすっかりまばらになっていた。
営業を終え、ひっそり静まりかえった夜の遊園地というのはなんとなく物寂しく感じられるものだ。ただでさえ、時代から置き去りにされたようなところのある遊園地なのに。
ぼくの記憶では、大学生のころ訪れた時点ですっかりさびれはてた印象のあった「花やしき」だが、じっさいのところはすでに戦前の早いうちにさびれていたらしい。
川端康成が、『浅草紅団』の5年後にその続編のように書いた小説『浅草祭』にはこんなエピソードが綴られている。
あまりに散々な書かれようではあるが、いまはともかく、ぼくが訪れたころの「花やしき」もたしかにそれに近い侘しい雰囲気が漂っていた。
そんな夜の花やしき通りをちんたら歩いていると、雨に煙った空を背景にふたつの「塔」がそびえたっているのに気づいた。左手に「花やしき」の鉄塔、そして右手にライトアップされた「東京スカイツリー」だ。
そうか、そうだった。いつの時代も、浅草は「塔」の街なのだった。
そこには過去から現在に至るまでたくさんの「塔」がそびえ立ち、そしてそのいくつかは姿を消していった。浅草寺の五重塔にはじまり、「十二階」こと凌雲閣、地下鉄ビル、凌雲閣を模した仁丹塔、そして花やしきの人工衛星塔(後に「Beeタワー」と改称)に東京スカイツリーだ。
小さなエリアに、これだけの「塔」が建ったり消えたりしているのは日本広しといえども浅草だけではないだろうか。
しかも、失われたものは言うまでもなく、いま聳え立っている塔もまた、未来ではなく、どこかひとを過去へ過去へと引き戻すような奇妙な磁力を放っている。
というよりも、そもそもあらゆる「塔」という存在じたい、あっという間に時代から取り残され孤立してしまう性格を本来的に備えているのだ。だからこそ、「塔」について書かれたものにはどこか読む者のノスタルジーをかきたてるところがある。
絵空事
浅草っ子として知られる久保田万太郎に、「絵空事」というタイトルの短いエッセイがある。「十二階」について書かれたものだ。
――「むかしの浅草には『十二階』という頓驚なものが突っ立っていた」という文章でそれは始まる。
頓驚とか、突っ立っていたとか、それがけっして浅草の風景になじんではいなかったことが想像つく表現である。さらに、「赤煉瓦を積んだ、その、高い、無器用な塔のすがた」と文章は続いてゆく。
おなじく浅草っ子の一ノ瀬直行もまた、建設当時は「斬新的なつもり」だったのかもしれないが、「どことなく野暮臭い外貌」だったと記憶の中のそれについて語っている。
では、浅草っ子がみなこの「塔」を疎んじていたのかというとまったくそうではないあたり興味深い。浅草っ子が「まだ十二階があった頃」と言えば、それはすなわち関東大震災前の活況を呈していた頃を指す。
じっさい、久保田万太郎は「が、それにしても古い名所絵の、東都浅草公園内の、いまをさかりと咲き溢れた花の雲の上にそそり立ったその無器用なすがた。……いまにして、わたしに、その安価な絵空事がなつかしいのである」と書いている。
たしかに、いつ行っても、つねにどこか「安価な絵空事」のような非現実っぽさが浅草にはある。そして、それが他の街にはない浅草らしさであり、妙にそれがなつかしくなってふと浅草に足を運びたくなるのだ。
まあ、それはともかく、長々と書いてしまったけれど、IUのライブの感想を書きたかったんだよ、ほんとうは。
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