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夜の散歩と祖父母のこと

親類のあつまりで、九十になる叔母から話を聞いた。

叔母がまだ若かったころの思い出話だが、記憶に残る事柄というのは人により異なるもので、折に触れて母から聞く話とはまたちがった新鮮な気持ちで聞くことができた。

なかでも、とりわけ印象に残ったのは祖父母、つまり叔母の両親にまつわるエピソードだ。

娘の目から見ても仲睦まじい夫婦だった祖父母は、夕食後、近所の麻布十番まで散歩にゆくのを日課にしていたのだという。それも、子どもたちを家に置いてふたりきりで。それは初めて耳にする話だった。

夜の町をそぞろ歩きながら、はたして祖父母はどんな会話をかわしたのだろう。子どもたちの話だったり、あるいは自分たちがまだ結婚する前の話だったりしたのだろうか。     

酒は飲まず甘党だったという祖父のこと、あるいはたい焼きなど買って、ふたりで半分こずつしたのではないか。想像しただけで微笑ましい。

散歩といえば、戦前の小説やエッセイには、夜、食事を終えてから散歩に出かける人びとがしばしば登場する。いまとちがい、家の中で興じるような遊びも少なかった時代、散歩は手軽で心の浮き立つ娯楽のひとつとして広く定着していたのだろう。

そういえば、最近手にした『喫茶店文学傑作選』というアンソロジーのなかにも、爪に火をともすように暮らす若夫婦が銀座へ散歩にでかけるほろ苦い味わいの掌編が収められていた。

一時は200軒を超えたという銀座名物の夜店が姿を消したのも、日本人がそれなりに豊かになり、さまざまな娯楽を得た結果、かつてのようには散歩に出なくなったことも理由のひとつとして挙げられそうだ。目先の愉しみと引きかえに、なにか豊かな時間を失った気がしなくもない。 

ところで、とても若くして亡くなった祖父母をぼくは写真でしか知らない。ぼくにはそれがとても残念に思われる。いつか《デロリアン》に乗車する機会に恵まれたら、腕を組んで夜の町をそぞろ歩きしながらショーウィンドウなど冷やかしている祖父母の後ろ姿を見に行きたいほどだ。それはさぞかし幸福な情景だろう。

それまで、さんざん戦争で苦労したあげく年若くして亡くなった気の毒な人たちという印象しかなかった祖父母。けれども、叔母の話を通じてかならずしもそればかりではなかったことを知り、すこしだけ安堵することができたのだった。

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