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発達障害者と子ども

私は発達障害者である。病院にてASDとADHDの正式な診断を受け、かつ、社会不適合者として障害年金をいただいているので名実ともに障害者だ。(一刻も早く発達特性持ち、にまでは回復したくはある)

絶望的に社会不適合者ではあるものの、子がいてくれるおかげで『普通(周囲がそう思ってくれているかは別として)』っぽい顔をしながらしれっと地域活動に参加している。

だが大人は苦手だ。謎のもわってしたバリアを感じる。私と似たような気質の方々も少数ながらいらっしゃるため、その人たちとお話しするときは気楽だが、いわゆる『一般的なママさん』とはかかわりを持てない何かを感じる。こちらも何とか仲良くしたいと『おっ!新幹線靴下ですか!シンカリオンの新シリーズ楽しみですよね!!!(今作は主婦層を取りこもうとする意欲を感じてすごく良いですよ!!!!そういえば鉄博は行かれました?0系が可愛すぎてときめきがとまらなくなりますよね、あと四季島が通ったときとか『きゃ~っ』てなりますよね!!!!)』と話しかけるも『あっ、安かったから買っただけなんで…(あっ、良いです、そういうの)』なる反応が返ってくることも多く、『なんか…中学時代の地獄を思い出すゾ』と懐かしい胃の痛みを感じている。

ただ、低学年の子どもはコミュニケーションが楽だ。なんというか上記のようなやり取りをまだ許してくれる印象がある。男子生徒はポケモンか、ベイブレードか、トミカか、恐竜か、電車をふれば後は自動的にしゃべってくれるので知見が広がって非常にありがたい。女子生徒もまだ話をしてくれる。(ただ、女子生徒とのかかわり方は小学生低学年から段々と難しくなってきている)

私が本格的に人と関われなくなった年代は小学校5年生頃からだった。今まで確実にバカだったはずのクラスメートが急速に複雑な人間関係に夢中になり、教室内で複雑な勢力図が展開されるようになったのだ。事前に何のインフォメーションもなく。水滸伝や三国志はおろか、『信長の野望』も未プレイの素人には手に負えるシロモノではなく、あっという間にクラスのすみでキラキラ光る綿ボコリを見続ける地獄が開幕した。その後それなりに攻略方を学習しようと努力はしたが、どうあがいても人と一緒に居ることはできない、という厳然たる現実に豆腐メンタルが爆散しただけだった。


物語で心優しいバケモノが子どもと何とか接してもらう、というテンプレがわかってしまう自分になんて声をかければ良いのか分からない。私は優しくもないただのコミュ障のバケモノではあるが、複雑な人間関係に突入する前の子どもという存在はとてつもない救いだ。とはいえ、子どもももちろん成長する。より高度な人間関係に突入していく。かつて知っていた子どもの変容に動揺しつつ、一定の距離をおきつつ『ただの通行人A』としてかかわれたら幸いである。


わが子も人間味を日々増してきており、ただただ不思議だ。彼らは一体どのような人になるのか。今一緒に同じコンテンツを共有できるありがたみを噛みしめつつ日々平穏にすごす所存である。

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