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第8話:潜在顧客が見えてきた「思考力だけじゃダメ。五感で顧客のサインを感じ取るの」——小説で読む起業

この小説では、主人公の洋子が起業家として成長するさまを描きます。ストーリーはフィクションですが、起業家としての失敗や苦労、成功法則はすべて、起業や新規事業開発における実際の現場での体験、知見に基づいたものです。圧倒的にリアルで生々しい、洋子の起業家としての歩みを、共に見ていきましょう。

前話まではこちらから

第8話:潜在顧客が見えてきた「思考力だけじゃダメ。五感で顧客のサインを感じ取るの」——小説で読む起業

前話までのあらすじ
洋子は、オンライン上で完結するインテリアコーディネートサービスのアイデアで、miltyを創業した。経営状況が苦しい中、初めてmiltyの潜在顧客になり得る顧客像を見出すことに成功した洋子。さらなる検証を進める為に、インタビューを計画していた。

洋子

洋子は、現状の仮説を書き留めた。

「民泊会社では、物件の内装がその物件の単価と成約率を大きく左右する。その内装に対する投資が投資損になるという問題を解消するために、顧客はあらかじめ投資対効果を見極める方法を探している」

以前の洋子なら、先走りしてすぐにサービス名を考え始めていたかもしれない。でも今の洋子は違った。

民泊会社の課題が本当に広くニーズのあるものなのかがわかるまでは、サービスを作り始めてはいけない——。

切迫した経営状況を経験する中で、このことの重要性が痛いほどわかっていた

美保がカフェで話してくれたことも頭に鮮明に残っていた。

「起業家に必要なのは思考力だと言われる。それはおおよそ正しいわ。でも、時に左脳中心の思考力は邪魔になることもあるの。

思考力に自信があると、判断に必要な情報を効率的に集めようとし過ぎてしまう。でも反対に五感を研ぎ澄ませ、全身で顧客のサインを感じようとすれば、『今サービスを作り始めていいのか』『待ったほうがいいのか』、顧客の声が教えてくれる。

思考力に頼り過ぎて、『早くサービスを作りたい』とか『売上を立てたい』とか自分の願望が入りこんでしまうと、顧客のサインを見逃してしまうことがある」

五感——。

思えば洋子は、自分の願望がすべてだった。願望を実現するためにサービスを作り、売上を立てようと奔走してきた。それを叶えるための思考力にも自信があった。学生時代に所属していたソフトボール部で作戦を立てるのはいつも洋子だったし、受験でも、就職活動でも、就職先でも、たいていは自分の思考力を武器に価値を発揮してきた自負もあった。

そんな洋子だからこそ、自分の願望を叶えるための左脳的な思考ではなく、五感を研ぎ澄ませて、「場」から相手のサインを感じ取る情報がいかに大切か、美保に言われるまでつゆも考えたことはなかった。

自分の願望は横に置いて、とにかく顧客の声を聞き、顧客の苦痛を全身で感じ取ること。顧客の声に導かれるように、ビジネスを組み立てること。この重要性に初めて気づいたのだった。

洋子は美保からもらった何気ない一言を自分なりに噛み砕けるまで成長していた。

しかしこの時の洋子は、「五感」の重要性を、本当の意味で分かってはいなかった。

洋子は織田さんへのインタビューの翌日、咲にチャットで連絡した。

「昨日はインタビューお疲れさま。織田さんの話を伺って、民泊運営会社の内装投資で生じる問題解決として、法人向けにmiltyのサービスを提供する可能性を探りたいの。民泊を個人ではなく事業として運営している会社をリストアップしてもらえる? そして、成約率と単価に大きく影響する内装をどうデザインしているのかについてインタビューしてほしい」

咲:「私も民泊運営会社からの一連の発注はしっかり掘り下げてみたいと考えていたところでした。インタビューで、特に押さえておきたい項目はありますか?」

洋子:「私たちが考えている仮説を直接ぶつけることは避けたいと思うの。民泊運営会社が顧客獲得の何に困っているか、内装についてどんなことに苦痛を感じているかオープンクエスチョンで探っていきたいわね」

翌日、洋子は美保に連絡をした。

洋子:「美保さん、昨日はありがとうございました。あの後すぐ顧客対応責任者の咲と話をして、民泊運営会社のリストアップと、インタビューをするよう依頼しました」

美保

美保:「え? 洋子さん、もう一度聞いてもいいかな。顧客インタビューを咲さんに依頼したの?」

洋子:「そうです。顧客対応責任者として創業前から一緒にサービスを作ってきたので、咲は私よりサービスに詳しい部分もあるんです。今回の法人向けの展開についてもすでに問題意識も持っていました。きっと顧客の苦痛を引き出してくれると思います」

美保:「洋子さん、それは絶対ダメよ。サービスを立ち上げるときや転換するときは、必ず創業者自らが顧客の声を聞かなければならないわ。絶対に。いくら創業メンバーであっても、インタビューを任せるのはあり得ない」

洋子:「え......?」

美保:「咲さんがどれほどサービスを理解して、問題意識も持っていて、優秀だとしても、それは大して重要じゃないの。創業者が自らインタビューしなければならない理由は大きく3つよ。

まず1つ目は、苦痛につながる話を頭だけでなく五感で感じ取り、それを掘り下げて、顧客が苦痛をとめどなく話すとても重要な瞬間に、立ち会えるから。2つ目は、気になる内容を、その場で掘り下げられること。

そして最後3つ目が、特に重要。インタビューでは顧客の話を「判断することなく」聞くことが大切だからよ。

咲さんに限らず、頼まれてインタビューをする場合、依頼者が伝えた目的に沿ってインタビューをすることになる。つまり、依頼者が聞き取って欲しいであろう情報と、そうでない情報を判断してしまうことになるの。

その結果、依頼者が聞くと嬉しいであろう耳触りの良い情報を優先的に聞き取ってしまい、耳が痛い情報は掘り下げなくなってしまうのよ。咲さんが優秀かどうかは関係ないわ。依頼されて行うインタビューはそういうものなの。

たった1つのインタビューがサービスの命運を握ることだってある。そこで得た顧客の声が、サービスの大きな変化を生み出すこともある。その瞬間に創業者が立ち会っていなければ、命運も変化も、その手から逃げていってしまうわよ」

洋子:「咲に依頼したインタビューは今すぐ止めたほうがいいですか?」

美保:「そうね。あなた自身が行うべき。もちろん咲さんにもインタビューに同席してもらうのは問題ないわ。情報共有が深くできてその方がいい時もある。ただ、一対一でしか聞き取れない情報もあるから、相手との関係性によって決めることね。

インタビューを誰かに依頼した場合、その結果を受け取って、判断し、行動に反映することになる。でもその場にいれば、判断ではなく、五感を研ぎ澄ませて感じ取れるものがあるはずよ。すると、顧客の声に導かれるように行動が見えてくるものよ」

洋子:「分かりました。また私は間違った方向に進もうとしていたんですね」

美保:「『大きく』間違えるところだったわね」

美保はたまに相手をやりこめるような言い方をするところがある。洋子も最初は戸惑っていたが、大きな間違いをしている時によくそういう言い方になるとわかってからは、自分なりに美保の言葉を噛み砕くようにしていた。

美保は続けた。

「洋子さんがやらなければいけないのは、顧客の苦痛を掴むことと、苦痛を解消する解決策を作ることの2つ。でも、プラトンが言うように『始めれば、その時点で半分終わり』だから、あと半分といったところね」

美保はよく哲学者の言葉を引用する。聞くと美保の父親が哲学者の言葉をよく美保に話してくれていたという。

大学で成績が優秀だった洋子にとっても哲学は馴染みがなかった。でも美保が引用する哲学者の言葉は分かりやすく、今自分が必要なことに勇気をくれるように感じていた。

洋子は、咲がリストアップしてくれたリストを、上から順番にインタビューをしていくことにした。

早速電話に出たのは、20件以上の物件を沖縄で運営する民泊運営会社の代表、久米沢だった。

民泊運営会社:久米沢

久米沢の運営する会社は、顧客からのレビューが500件を超える物件もあるなど好評で、評価も物件平均で5段階中4.6を超えていた。

久米沢:「確かに、内装はお客さまが物件を選んでくださる決め手になっていると思います。立地や広さ、間取りなどで一定の選択肢まで絞られた後はほぼ内装で決まります。

実は弊社の親会社は賃貸物件の不動産を扱っています。賃貸の場合、お客さまにはクリーニングしたまっさらな状態でお見せしますが、民泊物件の場合は、内装が決め手です。そのギャップがあったため、当初は内装にコストをかけることについて、親会社からの承認を受けづらい状況もありました。

今ではだいぶ理解もありますが、やはり費用対効果を明確に示せるわけではないので、内装に思い切った投資はしづらい状況です。ありがたいことにお客さまからは高い評価をいただいていますが、稼働率はまだ目標には達していませんし、競合も増えているので、安心はできません」

洋子は、驚きを隠しきれなかった。

洋子が創業前に半分営業モードで実施していた顧客インタビューでは、1つの質問にこんなにも具体的に自分の苦労について語ってもらえたことはなかったからだ。

インタビューのやり方次第で、ここまで相手の様子が変わることを洋子は改めて実感した。

そして、これほどの貴重な経験、五感に刺さる顧客との対話の時間を、人に任せようとしていたことが大きな間違いであったことも、よく理解できた。

洋子は久米沢に「参考にしている物件や運営会社はありますか?」と聞いた。

久米沢:「ええ。X社は参考にしています。創業者は米国の民泊運営会社での勤務経験があり、米国で標準となっている内装への投資方針を日本に持ちこんだ方です」

以前に美保からもらった「苦労している人は、苦労している人を知っている」というアドバイスを思い出し、実践したのだった。

ただ、久米沢はX社の創業者である幹元と直接の知り合いではなかったため、洋子は自分でアポイントを取ることにした。

洋子は早速X社に電話をした。すると、電話を受けた社員は、代表である幹元の携帯電話に転送した。いきなり代表の携帯電話に転送してくれるなんて、日本ではあまりない。洋子はこれが米国流なのだろうかなどと思いながら、幹元が電話に出るのを待った。

電話に出た幹元の周りは、やや騒がしかった。どうやら工事中の物件の現場にいるらしい。

民泊運営会社:幹本

幹元:「ちょうど今横浜の現場にいます。よかったらいらっしゃいますか? 詳しく説明しますよ」

これが米国でビジネスを経験した人のスピード感、距離の近さなのか。そんなことを思いながら、電話を終えた洋子は、車で1時間かけて横浜へ向かった。

渋滞もあったが無事到着すると、幹元が今まさに物件で、内装の打ち合わせをしているところだった。

洋子:「幹元さん、改めまして先ほどはお電話にてありがとうございました。インテリアコーディネート会社を経営しています、野下です。民泊運営会社の皆さまに、内装にどのような投資をしているのかをお伺いしています。日本の民泊会社の草分けでいらっしゃる幹元さんにぜひお話を伺えたらとうれしいです」

幹元:「民泊とホテルでは競争条件がまるで異なります。ホテルはブランドや立地、価格、間取りが決め手ですが、民泊はそうではありません。民泊では、アットホームであることを求める顧客が多く、そこで自分の家のように過ごしたいと感じています。でも自分の家のような物件がいいというわけではありません。自分の『理想の家』で過ごしたいのです。つまり、顧客はアットホーム感とワクワク感の両面を求めていると言えます。

続けて幹元は、洋子が質問した内装について答えた。

幹元:「競合優位性を得るためには内装投資が鍵を握ります。日本は自宅が質素で画一的な物件が多いせいか、理想の家に対する感度が非常に高いです。理想が現実離れしている場合も少なくありません。そのため、事前にニーズを確かめておかないと、内装に投資をしてもまるで顧客に響かないということが起こります。

洋子:「なるほど。今何か苦痛を感じていることはありますか?」

「毎日が苦痛です」

幹元は冗談めいた口調で言うと、話を続けた。

幹元:「顧客のニーズは日々変化しますし、シーズンによって予約の状況も大きく変動します。それにライバル物件も増えていますからね。

その中でも顧客のニーズを把握するために、顧客を一定のグループに分けて、グループインタビューを定期的に実施しています。そこで内装のデザイン案を提示して、意見をいただいているんです」

洋子:「グループインタビューで支持が高かったデザイン案に投資しているんですか?」

幹元:「そこが難しいところなんです。実はグループインタビューでは、グループの総意ではなく、個人の具体的な発言だけに着目しています。

例えばAからDまで4つのデザイン案があるとしますよね。インタビュー中、グループの総意ではCが最も支持されていたとしても、終了後に『実際にデザイン案ができた時に割引きするので、お礼としてお気に入りのデザイン案を教えてください』というと、ほぼ全員がAを選ぶ、といったことが起きたりします。他人にどう見られるかを気にした状態での意思表示と、本音は異なるということですね」

洋子:「そうなんですか。それなのに、なぜわざわざグループでインタビューするんですか?」

幹元:「顧客が毎日のように購入するものとは違い、民泊はあまり経験がない人がほとんどです。そのような場合、個別に意見を聞いても答えが抽象的だったり本当の感情ではなかったりします。その点グループインタビューでは、誰かの発言を聞いて「自分もそう感じる」という、自分の中で顕在化していなかった感覚を、他の人の発言を通して明確にしてもらえる効果があるんですよ」

幹元の話を通して、洋子はこれまでの顧客理解がどれだけ浅いものだったかを改めて痛感した。しかし同時に、民泊運営会社にとって内装への投資は重要で、かつ投資対効果の見極めが課題であることが明らかになり、気持ちが高揚した。

美保からは「まだ確信するには早すぎる」と言われてしまいそうだが、洋子は、自分の仮説が確信に近づいたような感覚だった。創業前には何十人インタビューしても把握できなかった顧客の苦痛が、久米沢さんと幹元さんへのインタビューを通じて具体的に掴めていた。

洋子は、サービスを、いや“顧客の苦痛を解消する解決策”をいよいよ具体的に作り直すことにした。

解決策を作り、検証して、本当に顧客が必要としているサービスに仕上げるためには、いくら急いだとしてもあと数ヶ月はかかる。その後は顧客を増やしていくという道のりも待っている。

キャッシュが持つのは残り2ヶ月——。

洋子は決断した。

今いる4人の社員と、インテリアコーディネートを担ってくれている契約パートナー10人以上を、一度解散することにしたのだ。

第8話のポイント
起業家にとって、時に左脳中心の思考力は邪魔になる
・五感を研ぎ澄ませて顧客のサインを感じ取り、顧客の声に導かれるようにビジネスを組み立てることが重要な場面もある
・サービスを立ち上げるときや転換するときは、絶対に起業家自らが顧客の声を聞かなければならない
・たった1つのインタビューがサービスの命運を握ることもある。その瞬間に立ち会えなければ、命運も変化も、この手から逃げてしまう

続き、第9話「顧客の苦痛は業界の課題」はこちら>

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*この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。