妖狐奇譚ラフ001

「うっ」
痛みで彼は目を覚ました。
足に激痛が走る。頭や背中も強打してるが、骨折の痛みが強烈で、じっさい何処がどれだけ痛いのかよく解らない。
「・・・ついに、こうなってしまったか」
鬱蒼とした木々、といっても森の中ではなく、崖の中腹にかろうじて体が引っかかっている。
そう、遥か上から滑落して来たのだ。

彼は何時か、こんな事故がいつか起きるだろうと思ってはいた。
それは危険を冒そうという者にとって、心の何処かで抱いてしまう麻薬のような「最期への願望」である。
いわゆる「廃墟マニア」な彼は、とある山奥の廃鉱山を目指していた。
少年時代からそんな探訪に明け暮れ育ち、結婚する気も無く、両親に愛想をつかれている。
アルバイトで食い繋ぎながらの気楽な一人暮らしをしながら、まとまった休みでもあれば廃墟を目指す。
しかし今回の目的地、山道すらとうに失われた難所だった。
なんでも、明治初期に閉山したと言う程度に古いらしい。
そんなの何の建物も遺構も無いんじゃないか?というのが、逆に探究心をそそったのである。
実際、鉱山くらいな代物なら坑道まで続く道ぐらい必ず付いてるものだが、そんなのは完全に藪と化していた。
テント装備まで背負って藪に突入した彼は、がむしゃらに進んで、目的地・・・ではないかと見積もった、webマップの空撮で発見した、開けた所にある池のような場所までは到達できた。
そこは少しばかり開けた平地があり、地面が剥き出し、石がごろごろしている。
だが、現場で石をよく観察しても鉱石と言うには何か決定打に欠ける。
そこで彼は野営は此処だと決め、リュックを外して更に何か見つけようと、藪へ戻っていったのだ。

そんな藪漕ぎの最中、ふいに足元の草地に、足がずぼっとはまった。
いや、体ごと地面の藪笹・・・だけが崖にはみ出ていただけの場所を、踏み抜いてしまったのだ。

「ははは・・・」
何刻経ったか。
崖の中腹に引っかかったまま、彼は笑っていた。
老いさらばえて病院で死ぬよりかは、好きな事やって大自然のなかで事切れる、そっちの方がマシだと言わんばかりに。
風が葉に当たってサラサラ鳴いている。
・・・しかしだ。痛いものは痛いし、腹も減ってきた。そうか、飢え死にってのは実際相当キツイ思いをするものだろうか。
まあ、しかし・・・事ここに至っては。
今までよくやってきたものだ。メシだって別に美味いもの食える程裕福じゃなかったし。

風がサラサラ鳴いている。と、
いや、茂みがガサガサ言っている。
彼は身構えようとしたが、体が痛くてどうにもならない。

頭上の青空を見上げてる彼は、崖上の茂みから何かの突き出たのを見た。
小さく、黄色い・・・あれは?
それは器用に崖を走り降りてくる。あれは・・・まさか、狐?
近付いた向こうも今やっと人間に気付いたのか、静止して怪訝そうに首を傾げる。
「・・・おまえ、もしかして、私を食べるのか?」彼は言い出した。
熊ならいざ知らず狐に出くわすとは思いもしなかったが、こんな最期に狐に出会うなんて、何と幸運か、とも思う。
豊かな毛並みを持ち、狡猾だが知的な生物。彼はよく知っていたというか、惹かれるものがあり色々と情報を物色している。
「念のため言っておくが、私はまだ生きてるぞ」と、寝たまま弱弱しくも腕を振り上げ、
「だが、もし私が死んだら、食べてもいい。お前雑食だろ。美味しく頂け。だが生きてる内は食うなよ、痛いからな」
まさか狐が狼のように生きた人間を齧ることはあるまい。そうならば、それこそ狼同然に害獣として狩られていた事だろう。
いや、毛皮目当てで本州では殆ど狩られてしまったが。
あの狐は未だに佇んでいる。
本当に目の前の光景は摩訶不思議だった。ここは群馬県の秘境だぞ・・・北の方から流れて来たのか。それにしても・・・?

と、狐は急に踵を返して走り去ってしまった。
ははは・・・やはり人間は怖かったのか。しかし、野生の狐は常に腹をすかしているだろう。死んだら、また来てくれるかな。
また、耳に入るは風の音だけとなった。
日が落ちてきた。
まずいな、気温が下がってきた。軽装で来たために、これでは夜中は凍える。
凍死・・・する程の季節ではないが、衰弱した体では、駄目かも知れない。
また藪がガサガサ言って先程の狐が出てきた。何か咥えている。
包装入りのパンではないか。
「どういう事だ?」
狐は恐れる事もなく近づき、口で噛んで丁寧に袋をこじ開けた。
あとは手が動くだろうと言わんばかりに、咥えて彼の口元に差し出し、じっと見ている。

彼はパンを食べた。
「まるで、介助犬ならぬ介助狐じゃないか。誰か住んでいて訓練されてるのか?」
だとして、飼い主が一緒に来て、ここを見つける、となれば、助かるのか・・・?
然し、狐は微動だにしない。それどころか彼に添い寝しはじめたではないか。
「いったい何なんだ」
その怪しい行動とは裏腹に、その柔らかい体毛はとても心地よく、寒さをやり過ごすには願ったり叶ったりだ。
既にどっぷり日が暮れ、夜になった。彼はもうどうする事も出来ず、疲労や温もりも手伝い、寝入ってしまった。

夜が白んだ刻、流石に冷気が堪え、彼は目覚めた。
狐はまるで無防備な感じに、彼に添い寝したままだ。
彼は寒さも手伝って、恐る恐る、狐を抱きしめてみた。
狐はそのまま気付かず、寝入っている。
普通に考えてありえない。どうも飼われてる狐だろうが、ここまで見知らぬ人になつくか?
いや、飼い主とはぐれて寂しく山中を彷徨っていたのか?ならあの食べ物は?
狐がよく人間の持ち物をかっぱらう話は聞く。
好奇心だったり、単純に食べ物が欲しくて奪う事もある。
だが餌付けなどされて人間を恐れなくなった、野生じゃ無くなった狐でないとやらない行動だ。
置いていったテント装備に食品は・・・あんな菓子パンみたいなのは入れてない。
いや、今はもういい。
それよりかは、死に際に、まさかこんな経験ができるとは。
どうりで、毛皮目当てに狩られるわけだ。
撫でてみると艶やかで弾力があり、少し力を入れるとすいっと手が潜る。
本体は思ったより小さく、毛が大部分なのではないか?という位に。
その潜った中が何より、暖かい・・・そして、外側とは違った、羽毛のようなふわふわ感。
「こんな、だったんだ・・・」
思わず声に出してみると、
狐の頭がくるっと、こちらの顔へ向いた。
目が覚めた狐は、じっと彼を見ている。
「あ・・・」
しまった、と思った矢先、狐はふうっと息を吐いた。
至近距離なので息が掛るのが分かるが、別に獣臭くもない。
獣臭くない・・・それもかえって不思議と言うか、奇妙であった。
まるで溜息のようなそれを合図に、狐は立ち上がると、崖の下めがけて飛び降っていってしまった。
「逃げ、られちゃったかな・・・」
彼は呆然とそれを見送ったが、それほど離れていない下の方で振り向いて、しきりに周りを見ては何か歩き回っている。
と、
見え隠れする狐を追うと、不意に、人の姿が目に入った。
人?いや・・・あれは巫女装束?
ついに飼い主が来たのか、と思うと、その巫女らしき人物は崖に取りついては、なんとかよじ昇ろうとしている。
だが非力なせいか、体一つぶん登ったぐらいで元にずり落ちてしまう。
彼は上からその光景を覗いているのだが、彼女と顔が合う・・・装束でそうだと言わんばかりなのだが、やはり若い女性だ。
いやまて、何で巫女装束なんだ?
「あの、すみません」彼は叫んだ、が、どうにも力が入らず、声が出にくい。
「誰か助けを呼んで下さい」と言おうとしたが、彼は何故かためらった。
奇妙な狐、巫女・・・何だろう、これは。
その巫女はまだ悪戦苦闘しているようだが、流石にもう、なのだろうか。狐が割って入って静止する。
何だろう・・・これは。

そのまま二つの顔は、動くのをやめて崖中の彼を、じっと見上げるだけとなった。
(何だろう、これは。いや、俺は助かるのか?)
彼はこの状況をまだ、何だろうと自問自答していた。
ところが、である。
流石にもう何かを諦めたのか、狐がふいに背を向けて、その場から去っていくではないか。
巫女もその後を追うように。
(見捨てられた?)
「ま!待ってくれ!」と、やっとの思いで叫んでも、一匹と一人は戻ってこない。
「うぉぉぉ!」と、彼は衝動に駆られたかのように、崖の中段から身を捩じり出した。
それはまた、またもや崖へ身を投じる事だというのに。

「・・・う、」
彼は妙な感覚で目覚めた。
天井、が、見える・・・ここは?
と、下半身がもぞもぞする、が・・・
「なにっ!」
何とあの巫女が、彼のズボンに手をかけているというか、パンツもずり降ろされてるではないか。
「おい、何だこれ!」
彼は慌てた。生来孤独に趣味ばかり追い求めたばかりに、女性経験など無いのだ。
巫女も慌てる彼にびっくりするも、手早くパンツとズボンを履かせると、無礼を詫びるかのように平伏した。
「いったい、あなたは誰なんだ?」
と問うも、彼女は顔を上げない。
「誰なんだ・・・」と再び問おうとして、そうか、私は確か崖から・・・
と、最後に意識が飛ぶ前の一部始終を思い出した。そして、そうかと気付く。
昏睡状態であっては、そのあいだに下の世話も発生する・・・待てよ、まずい。非常にまずい。
「も、申し訳・・・私を、看護してくれたのですか?」と尋ねるも、やはり彼女は石になったように動かない。
「?・・・今日は何日です?」と聞いても、だ。
何も喋らない、動かない。
「・・・?」
色々と不可解だらけなのだが、やはりこれも異常な何かを感じる。
と、そこへ例の狐が入ってきた。
すると巫女は、狐には反応するかのように顔を上げ、狐と見合ったり彼と見合ったり、何か納得したように頷く。
そして足早にそこを立ち去ってしまった。
「あ、あの・・・」
呆気に取られる彼。
ちょこんと座る狐は、彼をじーと見つめている。
すると巫女が、何か盆に食事・・・おにぎりを載せて戻ってきた。
「あ、そうか。食事の用意、してくれたんですね」
今更気付いたが、恐らく何日ものあいだ、気を失っている。
そうだ、時計・・・腕時計を見ると、五月十四日。
しかも不運にも電池切れか、針が止まっている。
彼はGWを好機として此処に乗り込んだのだが、これではとんでもない日数が経っている可能性すらある。
起き上がって、麓に戻らねば。としようとして、足と腹部の激痛に見舞われた。
そんな・・・よく見ると、ぼろぼろの上着にうっすらと血痕がある。かなりの重傷なのはとうの昔に理解はしてるが。
「どうしよう・・・」
恐らくバイト先は連続無断欠勤だ。連絡もつかない。
まあ働き先は有ったり無かったりで、無ければ貧乏どん底なのだが、場数は踏んでいるので別にクビになろうと仕方ない程度に思う。
しかしこの奇妙な状況において、この先自分はどうなってしまうのか?
「あの、なにかお話ししませんか?」
という問いにも、彼女は何も語らない。
「あの・・・」
介抱してくれたり、食事を用意してくれたりと、親切にしてくれる割には、何故なにも喋ろうとしないのか?
彼女は少し不安な顔で、狐を見やったり、何かそわそわしたりしている。
まさか・・・言葉が通じない?
彼は愕然としてしまった。いや待て、こんな巫女装束を着こなしていて、狐だって彼女が飼っているのだろう。
なぜ言葉が分からない、いや、喋れないのか?
彼は咄嗟に「狐を指さしてください」と言った。が・・・
彼女はきょとんとしたままだ。これは、喋れないだけではない。言語そのものが通じない。
どう見ても顔立ちは日本人である。どう見ても・・・と、今更ながらに相当な美人であると気付く。
確か、この巫女も崖にすがり付いて落ちた、のに、装束は洗濯したかのように綺麗だし、髪も美しく整っている。
文明から隔離された世界に住み続けたら、やまんばか何かのような出で立ちになったりしないか?
そもそも、喋れないのにどうやって生活している。更に別の人物から介助されて生活が成り立ってるのか。
確か、狐が菓子パンを咥えてきた・・・つまり別の飼い主が居る・・・
じゃあ何故巫女ばかりにやらせる?神主か何か、用事があって此処に居れないのか?
第一こんな山奥に引き籠ってる理由がなにも思い浮かばない。
彼は頭を抱えようにも、体が痛くてそれすら難儀する有様だ。
「もう、知らんよ、もう・・・」
結局、訳が分からないまま、もう為されるまま過ごすしかない。そうじゃないか、と。
おにぎりを苦労して食べ、堂々巡りな思案をする内に頭が疲れ果てて、諦めがつくと睡魔に落ちた。

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