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【プロレスと私】 第1回 幼いころの記憶(1973~1976年)

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 レコード&昭和プロレス愛好家のゴベと申します。

 アントニオ猪木さんがご逝去された2022年10月1日以降、70~80年代のプロレスの試合を観る機会が増えました。

 1971年生まれの私にとって、思い入れが強いのは80年代。特に80年代前半は寝ても覚めてもプロレスのことばかり考えていた気がします。
(80年代半ばから、音楽に対する興味が強くなってきたので)

 ということで、プロレスに熱狂していた時代をふり返ってみようと思います。記憶をたどりながら少しずつ書いていきますので、どうぞお付き合いください。

 なお、見出し画像のプロレスラー消しゴムは、小学生時代(80年代前半)に入手したものです。




 1971年9月18日に生まれた私が、幼いころに熱狂していたのは、変身ヒーローが出演する特撮やロボットアニメ。

 初めてリアルタイムで観た仮面ライダーシリーズが『仮面ライダーV3』(NET系列・1973年2月17日~1974年2月9日)で、ウルトラシリーズが『ウルトラマンタロウ』(TBS系列・1973年4月6日~1974年4月5日)。そして、生まれて初めて劇場で観た映画は、1973年に公開された『マジンガーZ対デビルマン』。

 2歳になったのが1973年なので、そのころの記憶が最古のものとなる。



 プロレスに関していえば、物心がついたころからアントニオ猪木の存在を知っていた。父と祖母が新日本プロレスのテレビ中継を観ていたので。
 試合の内容や背景などを鮮明に覚えているのは80年代以降になるが、幼稚園に通っていた時代(1976年6月26日)に行われたモハメド・アリ戦の記憶も残っている(もちろん、試合内容は理解できていなかったけれど)。

 といっても、まだ熱心にプロレスを観ていたわけではない。あのころはまだ仮面ライダーやウルトラマン、マジンガーZに夢中だった。
 当時の我が家にはテレビが1台しかなかったので、父と祖母が観ていたプロレスを自分の意思とは関係なく眺めていただけ。好きでも嫌いでもなかった。

 ただ、流血戦は苦手だった。「怖かった」という表現のほうが正しいかもしれない。悪の限りを尽くして対戦相手を血だるまにするタイガー・ジェット・シンを恐れていた。そして、シンを倒すアントニオ猪木を強いプロレスラーだと思っていた。


 NET(現・テレビ朝日)が金曜の夜8時に放送していた『ワールドプロレスリング』(新日本プロレス)は観ていたが、日本テレビで土曜の夜8時に放送されていた『全日本プロレス中継』を観た記憶はない。裏番組が『8時だョ!全員集合』(TBS系列・1969年10月4日~1985年9月28日)だったので当然だろう。日本中の子どもたちがザ・ドリフターズに夢中だったのだから。

 月曜の夜8時に東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送されていた国際プロレスや、フジテレビで不定期放送されていた全日本女子プロレスは観たことがある。



 初めて生でプロレスを観戦したのは、全日本女子プロレスの鹿沼大会(栃木県)。会場は、私の実家からクルマで30分ほどの距離にあった鹿沼市産業文化会館というホールで、マッハ文朱ふみあけがメインを務めていた。
 1974年に全日本女子プロレスに入門したマッハ文朱は、翌年3月にWWWA世界シングル王座を獲得したスター選手で、歌手としてデビューシングルの「花を咲かそう」をヒットさせていた。

 だが、最も会場をわかせていたのは、小人こびとプロレスの試合。彼らのコミカルなやり取りと見事な技の攻防に、幼い私もすっかり魅了されていた。
 小人プロレスという呼称を「けしからん」という方もいるようだが、誇りをもって戦っていた選手たちに敬意を表し、そのまま使用させていただく。

 この大会を観に行こうと言い出したのは父。はっきりとは覚えていないが、父がどこかで招待券をもらってきたような記憶がある。
 まったく興味がなかったので「絶対に行きたくない!」と駄々をこねたが、無理やり同行させられた。『ゲッターロボG』(フジテレビ系列)を見逃したことを恨んでいたので、同番組が放送されていた1975年5月15日から1976年3月25日の木曜日だったはず。


(つづく)


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#プロレス #新日本プロレス #アントニオ猪木 #タイガージェットシン #全日本女子プロレス #マッハ文朱

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