見出し画像

僕が安住の地を手にするまで [4] 良きにつけ悪しきにつけ普通の人間ではないのだ

土地購入と新居建設をきめて以来、周囲(とくに身内)からは、48にして(ほとんど蓄えもないのに)長期住宅ローンを組むことの難しさを色々なことばで諭されている。「よく考えろ」というのは、つまりは「ムリなんじゃないの?」と同義なんだろうと思う。確かに、たとえば25年ローンにしたら、返し終わるとき73歳だもんね。「えええ(;゚Д゚)、年金で返すつもり?」だし、「そもそも、それまで生きてる?」だよね。

普通に考えたらそうだ。

でも僕(とその家族)は、良きにつけ悪しきにつけ普通の人間ではないのだ。これまでいくら普通を目指そうと思っても無理だった。48年間の人生のなかで、「普通」が僕を受け入れてくれたことはおそらくほとんどない。それはもうよくわかった。だから、いつも「普通」でないやり方を模索して、僕なりに道を切り開いてきた。そうせざるをえなかったのだ。だから「普通」を諭すアドバイスは、実は聞いてるようで聞いてない(笑)。その一方で、普通じゃない僕だけのための道を作るのに必要な情報をくれたり、手を差し伸べてくれる人がいた。それがとても心強かった。そういう人たちに支えてもらえたから、なんとかここまで来れた。

今思い返してみると、僕の人生は周囲に「ムリだ」と言われてきたことをひとつずつ実現するプロセスだったと言っても過言ではない。

「うちは貧乏だからどうせ勉強してもしょうがない」と貧乏のせいにして遊んでばかりいた僕が大学行きを決めたとき、祖母に「あんたみたいなのが大学に行けるわけない」と一刀両断された。当時はこれがほんとに頭にきて、あのクソ婆を見返すために意地になっていたところが多分にある。あのムカつきが最後まで頑張る元気をくれたように思う。あのクソ婆がいなければいまの僕の地位はなかったのだ。だから感謝だ。

妻と結婚するときも、休学してアメリカから戻り、日本で働いている最中だったから、「結婚なんかしたら、日々の生活に追われてアメリカになんか戻れなくなるぞ」とか色々と忠告された。それに反して、結婚したし、爪に火を点しながら結構な額を貯蓄したし、最終的に復学も果たした。しかも当時は自分ちの家計だけでなく、育ての母と弟も養っていた。もちろん、それを支えられるだけの有難い仕事を紹介してくれる人がいた。

うまれて4ヶ月の第一子を連れて家族でアメリカに戻った時には、指導教官に「そんな状態で最後(博士課程)まで終えられるのか」と呆れられた。確かに周りをいくら見渡しても、修士課程の学生で妻子持ちなんてのは日本人では皆無だったし、アメリカ人やほかの国から来た学生でもほとんどいなかった。にもかかわらず、僕ら夫婦はさらに第二子までもうけてしまった(笑)。それも計画的に。子どもたちの存在は負担よりも、元気の源となった。大変ながらも家庭生活が充実していたから、頑張れたのだと思う。とはいえ、暮らしていたイリノイ州には低所得者に対する手厚い保護があったし、現地の多くの人たちに支えられた。

やっとの思いで博士号を修めると、今度は「人類学やペルー考古学で研究・教育機関に就職なんかできるわけない」と言われた。「だからほかにも可能性を探すべきだ」とも。確かにアメリカでの就職はうまくいかなかったし、日本に帰ってきても、しばらくプー太郎の時期があった。妻の実家に世話になりながら、朝から庭の畑で水やりをしていたころは、ちょっとだけ精神的に不安定になったこともある。しかしそれでも周囲の支えがあって、なんとか山形に足がかりを作れたし、そこから専任の仕事にもありつけた。

人に「ムリだ」と言われるほどやる気が出ちゃうのは、たぶんこういう生き方をしてきたから仕方ないんだと思う。まさに高木さんという存在は、またどこからともなく現れた僕らの救世主なんだろうと思う。だから僕らはその光が導くほうに向かって進むのだ。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?