「その書き方、俺もできそうだけどな」って思う時
なんてことはない、ひとつの表現だと思うだろう。
自分も、その時の感情によって、こういう書き方を思いつくかもしれない。
ただ、最近書き物をしている時、人と人の別れ際を書くことが何度もあり、その時に上記の表現が出てこなかった。
とても悔しい。
「自分でも思いつけただろうな、この書き方」と感じて、でも実際にはそんな表現一度も使えたことがなかったと気付く時、自分がとことん無能だと思ってしまう。
うまく表現しようと思う時、いいものを作ろうと思う時、大抵ひどいものができる。
何か事件があって、全てを投げやりに考えて、半分酔っ払いみたいなテンションでPCにもたれかかって、タイピングに全体重をのせるとき、案外自分らしい表現ができたりする。
だから、自分の人生にはハプニングが、予測不可能性が、事件が必要だ。
だけど、いざハプニングが起これば、自分はとても苦しいと感じる。
自分がとことん嫌いになる。自分が好きな時に、素敵なものが書けたことがない。
少し、話がずれた。つまり、「読んでいる時には書けそうだと感じても、いざ自分で書こうと思うと何も書けない」現象があまりにも惨めだという話だ。
最近、同じように思った作品がある。佐野徹夜の作品だ。
「君は月夜に光り輝く」で人気作家となったが、その後の作品はあまり話題になり切らず、コアな若者ファンだけに追っかけられている男。
最近、弟と佐野徹夜を散々バカにした。
「高校2年生ぐらいのやつがこじらせて書きなぐったみたい」と笑った。
「頑張れば、俺らにも書けるべ」と笑った。
だが、いざ考えてみると、あの臭すぎるこじらせと美しい切なさが全然真似できない。
結論、何が言いたいかというと、「書きもしないのに、読んだだけで偉そうに語るな」ということ。
書かない者に評する資格なし、とはこれまた酷く頑固な主張でありますが、自分はそう思います。
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