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Phoebe Philo。〜後半はみなさんの意見も聞きたい

Phoebe Philo

Phoebe Philo(以下ファイロ)はかつてセリーヌでクリエイティブディレクターを務めており彼女の服は「上質な生地でモダン。洗練された強い女性」をイメージさせた。

昨今、ファイロのセリーヌで働いていたPeter do Rokh KwaidanEditions Bottega Veneta (Daniel Lee) Maison Kitsune(Yuni Ahn)通称フィービー・チルドレンはいずれも元ファイロと働いていた経験を持つ勢いのあるデザイナーであり。彼らを排出したことでも有名なセリーヌ。今回はそんなファイロの思考や服作りなどから今のファッションをどう見れるのだろうか。

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※ファッションはどういうものか。どうすれば魅力的な恰好で思考で服を見れるのだろう。デザイナーの思考や服作りは常に高いところにあり、私たちはそれに魅力を感じ共感する。もしくは新たなクリエーションを行う。つまりその思考を少しでも理解しようとすることができれば私たちのなりたい自分。魅力的な自分、新たな自分に近づけることができるのではないか。という考えをもとにこのノートを毎週不定期で作成しています。(何かに従事するという意味ではなく新たな自分を創るという意味で)

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さて。ざっと彼女の経歴は、CSMを卒業し、クロエのステラマッカートニーのもとでデザインアシスタントとして働く。その後2001~06までクリエイティブディレクターを務め、その後10年間セリーヌでクリエイティブディレクターを行い18年に引退。彼女の功績として2億ユーロから彼女がセリーヌに入ると10年間で7億ユーロにするほど彼女の服は愛されていた。事実、やめた直後フィービーロスという名がつくほどに。。。

ファイロ「その方がシンプル」というメディア露出への拒み

ファイロは極端にメディアに出ることを抑えていた。理由は、ファイロ自身私生活を公開することを嫌がっていたようだが(自由を奪われたくないなどの理由から)一番はセリーヌのブランドイメージを強く大切にしたことからだと思う。セリーヌはフィービー以前低迷しており偉大なデザイナーや歴史が色濃く残っているとはあまり感じられなかった。そこでポストフィービーの登場だ。これにより否が応でもメディアは注目する。そこに品質や気質にこだわりつくした最高級な服への直接的な言葉などもはや不必要であった。セリーヌという繊細だが力強くミニマルでエレガンスな雰囲気はファイロが再構築したといっても過言ではない。


ファイロの考えるセリーヌに求めるものは上記の通り。実際に服に関してはどのような考えを持っていたか。

強くかっこいい女性像

ファイロは個人にフォーカスした服作りを追求した。彼女が服を着る理由は「自分自身を喜ばせる服。他者を喜ばせるために着飾るのではないとする」つまりセリーヌでは最高級な着心地(ファブリック)で妥協のない技術(カッティングやパターン)を駆使し、「最高なものを着る私」を演出。それこそが彼女の求める強くて美しい女性につながるのではないだろうか。

さらにこう答えている。「ファッションや服作りは誰でもできる。取り入れられる中でそれらを受け入れる姿勢が必要。ファッションの才能が有ればそれはおのずと周囲にも伝わるはず。」これは公に素顔をあまり見せない彼女だからこその発言で非常に意味のあるものだ。

フィービーファイロは決して見られる側から面白い服ではなく。着る側にフォーカスし表現することを選んだ。ファイロはしばしば芸術作品と彼女の服をミックスさせることを好んでいた。それは服で表現して方が雄弁さに長けていたからであり、ブランドのイメージに強く印象づけた。
実際にこういった匿名性?多くは語らない魅力を重要視するファッションデザイナーで少なくない気がする。
それはおそらく、考え抜かれたブランドコンセプト、圧倒的な服自身のカッティグや上質なファブリック。消費者への期待と理想。の上で成り立つものであり消費者はこれをどう消化するかがファッションの面白いところではないでしょうか(急に月並)



ここからはファッションってどういうものだっけ?という話です。(私的要素増々)

これだけ多くの人がファッションに魅了されてる今日この頃ですが、その魅力の感じ方は人によって様々。私個人的には良さを広めたいという視点で観ているので次のように考えてます。

ファッションは気づきの連続であり、その気づきは自己の身体的成長(外見的美しさ)、内面的成長(人間的)を促してくれる。

どういうことか。最初は誰しもファッションなんて知らないですよね、いつからか「あ、おれ服好きだったんだ」につながりそこから「あんな風に素敵になりたい」「自分もカッコよくなりたいな」「新しい魅力に気づきたい」のようにどんどん理想の自分に近づける。そしてその過程には同じ「かっこいい」「素敵」を求める人通しの繋がり(友人や店員さん、服好きな年齢を超えた関係)があり、そこで「あ、そういう見方のほうが魅力的だな」「新しいこと知れたな」という気づきが生まれる。それってとても人間的で素敵じゃないでしょうか。全く違う場所に住んでいてもファッションというものでつながり、その他の分野の話でも結びつけて盛り上がれたりもする。(それもきっとファッションに通ずる気づきだったりする)

衣食住の一番頭にくる衣は、単なる身体を守るだけの道具にするのはあまりにもさみしい。そこには、服の知識を網羅し、かつ芸術センスにたけ外見的にも内面的にも私たちを楽しませてくれるデザイナーの方々。生産関係者の方々。

それをリスペクトし、なんとか自分たちの持ってる情熱を伝えようと試行錯誤し日々情報と実験的な行動によりファッションを素敵なものとして世間に提案し続ける販売員の方々やファッション関係メディア。

そして、それを受け取る私たち。(マスの人々)この私たちの「捉え方」は人それぞれ違うため断定できないが(例えば、歴史的に服を見て自分なりの解釈で表現する人もいれば、妥協の無いデザインやカッティングなどの外見的に表現する人もいる)大かた先ほども言った「求める素敵な自分」に集約されるのではないか。

ただ。ここで問題なのは、ファッションに正解が無いだけに明確な『それ』が無いことであり、いくらデザイナーやファッション関係者が求める素敵なファッション世界を実現させたくても
ファッションは自由だからと、『自由』にあぐらをかく行為が問題なのである。
これだけはマスが最も重視すべき点で、ファッション関係者も共にある程度認めなくてはならない行為である。

私たちマスは本当の素敵を求めるなら自己完結するのではなく常に自分の刹那的感情に疑って行かなくてはならない。そうでないと魅力的ではないし、本質的な追求にもならない。
逆にファッション関係者も求めるもののためにマスを強制コントロールするのはファッションの持つ多様性や個人の持つ素敵な個性を損なえない。

じゃあどうすればいいんだよ。という声が聞こえてきそうです。正直私はこの考えが正しいのかもはっきりとノートに書いていいのかもかなり疑っています。
(現時点での私的意見として軽い気持ちで御笑覧あれぐらいの腹づもりだ。あしからず。)
私が行き着いた結論は。
遡れば古代ギリシャの先人達がディベートを始めたように、フランクにいうとダウンタウンが出ていたリンカーンの『朝までそれ正解』のような感覚(笑)のファッション版で常にファッションが最高に素敵でクールなものという共通概念のもと、お互いの素敵なものに『気づき』合って疑いあって行かなくてはならない。

ヒィービーファイロから壮大にずれてしまったが、そこはご愛嬌で、、、。
ファイロ流にいうのなら、ファッションを知らない人、これから気づく人たちに向けて私たち愛すべき服オタク集団は常に魅力的なオーラと服を纏い周囲を取り込んでいかなくてはいけない使命も同時に含んでいる。

楽しみましょ

ごめんあそばせ



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