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【映画評】ミッドサマー 社会の外側としての祝祭


祝祭と法外がメインのテーマだなと思ったので一度それらについて説明します。 祝祭、つまり祭りの歴史は古く、ほとんど人類の誕生と同時に存在しました。しかし、現在のような 形となったのは大規模定住社会が始まって以降です。
大規模定住社会、つまり農耕社会が始まってから祭りが必要になった理由は“本来の我々”性を思い出すためです。
説明します。そもそも我々の体は農耕社会でなく狩猟採集社会に適するようにできています。人類は約 500 万年前に誕生したけど農耕が始まったのは早くても 2 万年前なので進化のスピードが追いつくはずもなく、人類は狩猟採集に適した体を持ちながら農耕社会に移行しました。農耕に適さない身体を持ちながらも農耕に 従事する(というか人口が膨らみすぎたので従事しないといけない)ようになったので当然ストレスが溜まります。祭りはその捌け口として行われるようになりました。つまり、農耕的なものを 1日だけ忘れて狩猟採集的なマインドに戻るというのが祭りの本質といえます。その 時に必要となるのが法外へのトリップです。

“法”というのは「目には目を」のようにルールを設けることで大きな組織の運営を可能にします。大人数で 力を合わせることが必要な農耕社会には必須なインフラです。一方、先述のように我々は農耕社会に適した 身体を持っていないので狩猟採集民としての我々の気は枯れていきます。このケガレ(気枯れ=穢れ)を晴 らす(ハレの日)ためには我々が本来住んでいた法の存在しない社会、法外へトリップする必要がありま す。だからお祭りでは“無礼講“、普段は許されないことも許されるので、現在でも人が死ぬような岸和田の だんじり祭りや諏訪の御柱祭りなどが続いています。また、このような法外へのトリップは仲間との絆を醸成します。友達と一緒に校則を破ると仲良くなるというのと似ています。あとで説明しますが「法外の世界で仲間と一つになる」という営みはこと映画で数多く描かれてい ます。

以上がこの映画の主題となっている祝祭と法外の説明です。
いよいよ映画の内容に踏み込みます。
内容は単純で大学の博士課程に在籍するアメリカ人男性 4 人とそのうちの一人のガールフレンドが研究のた めにスウェーデンのある村にいきます。そこでは不思議な儀式が行われており、5 人もそれに巻き込まれ云々 という物語です。

主人公のデニーは双極性障害を持つ妹が両親と無理心中した影響で精神的に不安定な状態にあります。映画 『怪物』の校長先生のように一種の虚脱感に苛まれこの世とあの世の境に立つ者、“境界人”として描かれて います。 それを示すようにドラッグによるトリップで彼女の視界はぐにゃぐにゃと歪み身体から草木が生えるという幻覚を見ます。彼女にとって彼女自身と自然は分けられるものではなく同じもの、もしくは自然の一部であ ると認識していることがわかります。このように誰か、もしくは何かと溶け合う能力のある人は変性意識状態に入りやすいといえます。スポーツでいう”ゾーンに入る”というのと似ていてものすごい集中力でいつもの数倍のパフォーマンスを発揮できる状態のことです。科学的には、脳内で β 波というものが大量に放出されている状態が変性意識状態に該当しますがこの β 波は女性のほうが放出されやすく卑弥呼のようにシャーマ ンと呼ばれる人に女性が多いのはこれに起因します。 デニーは精神的ショックによって境界人(あの世とこの世の境にいる者)となり、人間と自然が溶け合った 感覚を持っていることから、変性意識状態に入りやすくメイクイーンを決める競争でも 1 番になりました。
一方で、彼女と一緒にきた男性 3 人は(一緒にきたのは 4 人だが内 1 人はこのコミューン出身)デニーと同じ ような感覚には乏しいと言えます。それは大学院の博士課程にいるという設定によって示されています。学問というのは物事を論理的に記述する“法内”、“言語内”の営みなのでコミューンが行う“法外”、“言語外”の営みとは対照的です。また、それを強調するように彼らの選考は文化人類学という設定です。文化人類学はあ らゆる文化を論理的に記述するという学問なので“法外”、“言語外”の世界にいるコミューンの人間からすれ ば敵に見えてもおかしくないでしょう。 特にデニーの彼氏のクリスチャンは終始一貫して彼女に共感するのでなく、彼氏に求められる最低限のムー ブをしているだけであり、このことも示唆的です。

物語の中心であるコミューに話を移しましょう。 あのコミューンは法外の儀式による共感によって繋がっています。例えばコミューンのルールとして 72 歳で 命を終えるというものがあるが、老人二人が飛び降りをした際、村人たちは老人の飛び降りの痛みに共感 し、顔を顰めています。コミューンの成員、全員がそれを見て痛そうだなと共感することによってあの集団 は繋がっています。同じ映画をみると仲良くなるという理論の極端なバージョンです。 これはダンスによる祝祭のシーン、その後のラストシーンにも通じています。ダンス、または運動全般は他 人と感覚を共有するのにうってつけです。人間の精神状態は往々にして心拍数によって左右され、心拍数は 呼吸によって左右されます。他人と同じ運動をすることは他人と同じ身体状態、精神状態になることを意味 し、この他人と同じ感覚になることを俺の言葉で「同じ世界に入る」と言います。その証左としてダンスの 後半では主人公は喋れないはずのスウェーデン語を話しており、デニーは言葉の通じないはずのコミューン の人間と繋がっています。(いささかやりすぎな表現で唯一と言っていいほど嫌いなシーンだが大人の事情な んでしょう。)
これらを踏まえると物語の終盤、メイクイーンとなったデニーが彼氏のクリスチャンかコミューンの人間、 どちらを生贄に捧げるかの決断を迫られた時、彼氏のクリスチャンを選んだのは当然と言えるでしょう。彼 女は変性意識状態に入ることによってコミューンの人たちと繋がりました。クリスチャンが他の女とセック スしているところを見てしまし、泣き叫ぶデニーに対してコミューンの少女たちは言葉で慰めるというよう なことはしません。ただ、デニーの呼吸に合わせて同じように泣き叫ぶことでデニーの傷を慰撫します。一 方、コミューンの人々に囲まれながらセックスをし、取り巻きデニーにしたのと同じように喘ぎ声に合わせ て同じく喘ぎますがクリスチャンは「ポカーン」としていて、全く まわりと呼吸が合いません。この低い 身体性ではデニーとも誰ともつながることはできないので、デニーによって死を宣告されるのは当然と言え るでしょう。 しかし、これは彼女がクリスチャンとのつながりを諦めたということを意味しません。先述の通り彼女の意 識は自然と一体となっており、彼女は自然の一部です。彼女はクリスチャンを殺すことで“法内”、“言語 内”の世界から開放し、自然に還すことでクリスチャンとつながろうとしました。彼女の最後の笑みはやっと クリスチャンとつながれたという満足に満ちています。

また、クリスチャンという名前も示唆的です。本来イエスは“if - then文“で動く人間を否定し善きサマリア 人のような行いを肯定しました。しかし、パウロが聖書を生み出して以降、徐々に教義的なもの、つまり”if- もし祈れば then-あなたは救われる“というように記述可能、予測可能なものに成り下がりました。つまり、 多くの原初キリスト以降に見られるイエスに言わせると非倫理的な人物の象徴としてクリスチャンは描かれ ています。“if-誕生日が来たら then-祝う“、“if-彼女がつらそうなら then-話を聞き共感してる風を装う”と いうように一見優しく見えますが、彼女の気持ちはお構いなし。常に受動的で自ら能動的に彼女に何かをす るということはありません。善きサマリア人のような助けたい、故に助けるという内発性はもはやクリスチ ャンにはなく我々も身につまされます。

以上のようにミッドサマーは文化人類学的な視点から我々の営みを相対化するような映画です。この映画はホラー映画に分類されますが、それは法内の営みに慣れきってしまっているからです。ミッドサマーをホラー映画と呼ぶかそうでないかは一種に踏み絵として使えるでしょう。

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