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クォーツは言った (1)


 夕食の支度をしているとき。指が切れた。薬指の先だった。けっこう深くて、皮がそげている。そこから「石」が出てきた。いや、気づいたらあったのだ。血がにじみ出てくるのに一瞬、気を遠くしたのち、石はまな板の上にごろんと転がっていた。爪ひとつ分くらいの大きさで、白っぽい。だけど、透き通っていた。出血しているはずなのに、それはどこも赤くなかった。

 こいつはどこから来たのだろう。
 わたしの指の先にはこんなに大きな石がおさまっていられるような空洞があったのか。血が浮き出てくる指先をまじまじと見つめてみる。空っぽの部分などどこにもなかった。
 もしやあの時だろうか。小学生の頃、裏山探検クラブという非常に陰気なクラブに所属していた。毎週水曜日、わたしたちは山に向かった。裏山(東山とも呼ばれていた)には水晶谷と呼ばれる場所があって、大きく美しい水晶をとるべく黙々と歩くのである。
小学生にとっては険しい山道を登り(一歩間違えば下に転げ落ちるようなところだった)、乾燥しているためかとても滑りやすい急な坂を越えると"水晶谷"はあった。
 わたしはあまり水晶を見つけるのが得意ではなかった。同じクラブの男の子達にとって蒐集に値するのは透きとおった形のきっちり整った水晶であって、濁った色の石英には見向きもしなかった。でもわたしは彼らが見向きもしない、「石英」ばかり拾い集めていた。そんなのあつめてどうするんだといわれてもころころと転がる不揃いな石英が好きなのだと答えていた。集めた石の濁りの美しさについて力説することさえあった。
 ある日、わたしは大きな大きな水晶を見つけた。それは彼らが今まで見つけてきた水晶よりもずっと透明で大きい、とても美しい石だった。きちんと六つに角張っていて、真っ直ぐ天を指さすように尖っていた。わたしの指ほどもあった巨大な石を、他の男の子たちは羨ましそうに見ていた。
「くれよ。これと、これとこれ。三個と交換。おまえはいらないだろ」
 わたしは頷かなかった。「石英」という哀れな石たちを、クラブの誰よりも愛していたはずのわたしは、すっかり透きとおった美しい石に魅了されていた。絶対に手放したくなかった。
 時間になって、顧問の先生が集合の笛を吹いた。真っ先に先生のもとへ行くと、石を見せた。すごいな、と興奮ぎみに言う若い男の先生を見てわたしは得意だった。早く山を下りたくて、先生のすぐ後ろについた。
 その時、谷を抜ける傾斜のきつい坂はいつにも増して乾燥していた。谷に入るときも、滑って転びかけていた。わたしは他の子よりも慎重であったから、「かける」だけで済んでいた(他の子はほぼ足を滑らして、てのひらに傷をつくっていた)。だが、帰りは違った。わたしは美しい石に舞い上がっていた。
 帰り道は身体をひっくり返して、後ろ向きに進む。腹ばいするように、後ろに。だからこそ、手で地面をしっかりと掴むことが重要なのである。しかし、石と片時も離れたくなかったためにわたしは石を手に握ったまま、坂を下りようとした。うまく地面を掴めなかったために勢いよく下にずり落ちる形となった。てのひらは、男の子たちよりもずっとひどく傷ついて赤くなった。わたしは大泣きをした。痛かったが、それは問題ではなかった。「石」を、落としてしまったのである。ずり落ちるときに、あの美しい石から手を離してしまったのである。
 その瞬間のことをよく覚えている。石から手を離したとき、石は一層輝きを放った。そうかと思えば、土色に同化してどこかに消えてしまった。落とした瞬間はよく覚えているのに、心配したクラブの男の子たちがいくら探しても石は見つからなかった。石がほしくてわたしを脅した奴なんかも必死になって探していたが、それでも見つからなかった。
 泣きべそをかきながら山を下りると、わたしは保健室に連れていかれた。真っ赤になったてのひらに消毒液をぶちまけられた。あまりの痛さに顔が歪んだ。ガーゼで汚い血がどんどんと取り払われていった。やっとのことで皮膚がえぐれたピンク色の自身を見た。すると、ある一点がキラキラと輝いていた。
 「ああ、大変。石が入っちゃってる」
 ガチャガチャと器具をあさって、保健の先生はその石をとりだそうする。なかなか深くまで潜りこんでしまっているようで苦戦しているようだった。
 「ダメねえ、あんまり無理やりするといけないからきちんと病院にいってとってもらいなさい」
 ため息をつき、保健の先生は困った顔をしていた。傷を覆う大きなガーゼをテープで固定すると保健室から解放された。
 教室に帰る途中、ガーゼの下を覗いてみた。そこには濁った色の石が一つあった。わたしはその後、病院には行かなかった。
 
 あの時のだろうか。あの大切な「石」を失くしてしまったときに手に入れた小さな石ころ。まだ石ころを目で見ることができたときは事あるごとにそれを眺めてみた。傷はやがてふさがって、今では跡形も無い。石ころは、ついに皮膚の下に埋まってしまった。見えなくなると次第に忘れていった。気がつけば十数年経ってしまっていた。この「石」は、あの時の濁った石ころだと言うのか。いや、あの石ころはあんなに大きくなかった。せいぜい爪の六分の一かそれ以下かといったところだろう。いくら石ころがわたしの中に入ったとしても、それが育つなんてことはおかしな話だ。なによりも、わたしの指先には空洞がなかったのである。こんな、指先と比べたら大きな石を抱きとめてやれるような空洞が、そげた指先にはなかった。空洞がないことは、この溢れ出てくる赤色がよく表しているではないか。わたしの身体の中にはこの液体がみっしりとつまっているのだから、空洞などない。わたしには、どんな隙間もなく、空っぽでない。

 ――やっと外に出ることができた
 声が聞こえた。透き通っていた。だからこそ、絶対に手に掴むことができない、そんな響きだった。
 父は今、店に行っているからここにはわたし一人きりのはずだった。誰か来たのか。しかし、人もあまり通らない、林の中にある静かな家だ。包丁を置くと、恐る恐る玄関に向かった。そっと引き戸を開く。辺りを見回してみる、けど、やはり誰もいない。聞き間違いか。
 ああ、ずっと昔に亡くなった母の幽霊でも出たのだろうか。いや、それは違うだろう。それは間違いない。だって、彼女はとっても上品だったから。あんなぞんざいな言葉遣いはしない人なのだ。言うとしたらこうだ、やっと外に出ることができました――こうやって、誰に対しても丁寧な言葉遣いをする。そんな人だった。
 台所に戻る前に、この指の血をどうにかせねばなるまい。あの響きのことは気にしないようにして、居間に向かった。少し上等な食器がしまってある棚の下の方に救急箱はしまってある。ガーゼを取り出して、指に添えると消毒液をかける。とても痛くて顔が歪んだ。汚れたガーゼは捨ててしまうと、新しいガーゼを指先にあてた。テープで固定すると、そげた指先が押さえつけられて、じんじんと痛んだ。ガーゼにぽつぽつと血が染みる。これ、止まるのかな。ああ、料理の途中だった。片付けなくては。

 台所には冷蔵庫の稼動音が満ちていた。あの透き通った響きには似ても似つかない、不細工な音である。日当たりの悪い場所にあるせいか、初夏の気温に似合わず床はひんやりとしている。
 少しの間放置していたまな板の上には、愛嬌のある円を描いた胡瓜と包丁、そして石があった。まな板にはぽつぽつと赤い点が落ちている。点の間には、そげた指先が落ちている。胡瓜のほうは、そげていない右手で拾い上げて、ざるへ。そげた指先は、左手で拾い上げた。
――ああ、捨てられてしまうのかい、かわいそうに。
 それは先ほどの「透きとおった響き」だった。女性のものよりは、男性のものに近いその響きは、わたしの肉片にそんな優しい言葉をかけた。あまつさえ――なあ、君。きちんとお別れをいうんだよ、痛かったろうに、なんてわたしに説教じみたことを言った。
 「なんなんだ、君は、どこにいる。姿を現したらどうなんだ」
 姿の見えない相手に、声を荒げる。指先の痛みと夏の始まりの微妙な暑さもあいまって額には汗の粒が浮かんでいた。
――いるじゃないか、君の目の前に
 わたしは自分の目の前にあるものを見た。切った円い胡瓜、これから切る胡瓜、包丁、赤い点のついたまな板。
――わたしはここにちゃんといるじゃないか
 目の前には、さっきの石があった。わたしは悟った。
 この石はしゃべる。

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