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ささやかな葛藤

先週の日曜日の夜。近所の神社で祭りがあったので行ってきた。
露店のお好み焼きが食べたかったのだ。私は露店ではお好み焼きが最も好きであり、次点で焼きそば、たこ焼きと続き、他は食べなくても良い。

Tシャツにハーフパンツ、サンダルという非常にラフな格好な私は、神社に入ってすぐのところにお好み焼き屋があることを発見し、さっそく買おうと値段を見たら八百円もする。
いつの間にこんなに値上がりしたのか。今日の燃料費と物価高の影響であろうが、それでも高い。自分で焼くタイプのお好み焼き屋でも八百円なら一つ注文できる。他にもう少し安いお好み焼き屋はないかと思い、大勢の人でごった返す境内を探してみるも他にお好み焼き屋は見当たらない。仕方がないから焼きそばにするかと思い、焼きそば屋を見つけ値段を見ると五百円と高くはないが、つい最近スーパーで焼きそばを買って作って食べた身からすると、同じ値段で二人分は食べられるなと思ってしまい、焼きそばも買わず、私はそのまま足早に境内を出てスーパーへと向かった。冷凍食品のお好み焼きを買おうと思ったのだ。

スーパーへ向かう道すがら、私は自宅に使いかけのお好み焼きの粉があることを思い出していた。冷蔵庫には卵とキャベツもあるから最低限のお好み焼きは出来る。しかし、そこに豚肉や小エビ、青のりなども付け加えるとすると手間も金かかる。日曜日の夜八時過ぎにそこまではしたいとは思わなかった。一方で食材の費用のことも考えたら、露店のお好み焼きと大して変わらないのではないか、却って安いのではないかという思いもあった。そしたら踵を返して神社へ戻るか。否、それもここまで歩いた今となっては面倒である。そんな葛藤をしながら私の足はスーパーへ向かっていた。

神社から徒歩七、八分の私が毎日のように通っているスーパー、ライフに入店すると私は真っ直ぐ冷凍食品売り場へ向かった。お好み焼きを探すためだ。ちょうど数日前に観たYouTubeで撮影者が冷凍食品のお好み焼きを食べて「美味い」と言っていたのも印象に残っていた。それもあり私の脳内の一角は「お好み焼き」の一語が占めていた。

冷凍食品売り場には一枚ずつ入った二種類のお好み焼きがあったので、私はガラス戸を開け、それらを手にしてレジへ向かった。両方を選んだのは一枚だけでは足らないだろうと判断したからだ。二つで約六百五十円。どちらも電子レンジで七分温める必要がある。六百五十円を出し、電子レンジで七分も温めるのならば露店のお好み焼きを買った方が良かったのでないか。さすがの私もそう思わざるをえなかったが、だからと言って神社に戻ろうという気にもならない。それに冷食のお好み焼きを買うのは初めての経験だ。ものは試しである。

そうして食べた二枚のお好み焼きは、私が思い描いていたものとは似て異なるものであった。不味くはないが自分で作ったものとも店で食べるものとも比べて満足感は一段、否、二段ほど下がる。そうした不完全燃焼の思いと共に、私は二枚のお好み焼きを腹に収めたのだった。

この話を先日、飲み会の席で友人らに話したところ、「露店のお好み焼きは高くても、そういう体験を買うものだよ」と諭された。なるほど、今は風の時代だと言うが、正にそれだったか。あのような祭りの場でコストパフォーマンスを求めるのは無粋だったか。ちなみに風の時代とは、物質よりも体験に重きを置く時代という意味であるが、詳しくは各自で調べてほしい。

いずれにせよ、今後もし露店のお好み焼き屋を見つけ食べたいと思ったら、四の五の言わず買おうと思った次第である。それでもやはり「高けぇな、おい」と思ったら自分で作ろうと思う。


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