見出し画像

中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その22/浮浪


妍を競う

昭和2、3年頃
中原中也は
初めての自選詩集を発行する計画に力を注ぎ
いくつかの詩を原稿用紙に清書しました。

「浮浪」は
そのときに清書された原稿の一つで
昭和2年(1927年)晩秋の制作と
推定されている作品です。

浮浪
 
私は出て来た、
街に灯がともって
電車がとおってゆく。
今夜人通も多い。

私も歩いてゆく。
もうだいぶ冬らしくなって
人の心はせわしい。なんとなく
きらびやかで淋しい。

建物の上の深い空に
霧が黙ってただよっている。
一切合切(いっさいがっさい)が昔の元気で
拵(こしら)えた笑をたたえている。

食べたいものもないし
行くとこもない。
停車場の水を撒いたホームが
……恋しい。

東京の街を
友人知人を頼りに
歩き迷った詩人ですが
貧乏過ぎてひもじい思いをしているわけでもなく
心うちとける友人知人が数多(あまた)いるわけではなく
富永太郎が亡くなり
長谷川泰子に逃げられ
小林秀雄との「奇怪な三角関係」は継続し……

新しく知った友人知人の
思い当たるところには
手当たり次第行って
目当ての相手に会えれば
とことん飲みとことん話し込むというような暮らしは
「大正十二年より昭和八年十月迄、
毎日々々歩き通す。
読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、
それより夜の十二時頃迄歩くなり。」
――と、後に「詩的履歴書」に書いた通りに
この頃の詩人の日常でした。

中原中也の詩の多くが
歩いた結果に作られ
歩くことが詩を作ることであり
歩くことが詩であるという
「歩く詩人」である由来はここにありますが
この詩には望郷の思いが告白されているところが
特異です。

「浮浪」は
歩くことをもろに歌った詩であり
それも早い時期の作品であり
なおかつこの詩が
未完に終わった第一詩集に選ばれていたということは
銘記しておきたい第一のことです。

それが
ランボーの放浪の刻印という点でも
ダダ脱皮という点でも
詩人の原風景の一角を形成していると言えるからです。

結果的には
ようやく昭和9年(1934年)になって
「山羊の歌」が公刊され
これが第一詩集となるのですが
昭和2年から3年の間に計画され、
公刊に至らなかったこの幻の詩集に
選ばれた作品をすべて列挙しますと

「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思ひ」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」
――の13篇です。

この中のいくつかは
「山羊の歌」にも収められますが
この13篇のほかに
「愛の詩」と彫刻家・高田博厚が呼んだ
詩の一群があり
この一群も幻の詩集を構成していました。

「これは誰にも見せない、あいつにも見せないんだけど、
僕が死んだら、あいつに読ませたいんです。」
(高田博厚「人間の風景」中の「中原中也」より。)
――と言って、
中原中也が高田に渡した詩篇です。

それがどの詩であるかは特定されていませんが
「あいつ」とはいうまでもなく
長谷川泰子のことで
この「愛の詩」が
泰子を歌った詩であることも間違いありません。

後に「山羊の歌」に選ばれる恋愛詩も
この「愛の詩」と同じものなのかも知れず
泰子の影がここでも大きいことを知らされるのです。


最後まで読んでくれてありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?