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隠微じぶる

ある日ふと、死んでしまうんじゃないかと強烈に思った。それは特別な事などなにもないケの日で、僕は例の如く通勤電車に乗り遅れ、後続の電車を待つステエションのホームに立っていた。飛び交う電子音、高架下をごおと通る車の音、足を交差させて歩くハイヒールのカツカツ音、実に様々な音が狂喜乱舞して聞こえていた。遠目には、朝焼けを側面に受け広げた巨大なビル群、その隙間にどおんと太鼓を打ち鳴らすような、富士山。マウント・フジ。曙光を器用にあしらって山の頂に敷かれた白雪が美しく煌めいている。何百キロと離れた駅のホームからも富士の力強さが伝わるほどに、外気を埋める粒子が最小限に縮こまって、一糸まとわぬ寒さに僕の眠気は覚めてしまった。電車を待つ最前列に僕はいた。背後には、無為に僕に照準を合わせてしまった殺人衝動を必死に抑え込もうと、一般的な善人のふりをした一般人がスマホに人差し指でタクトを振っている。人差し指は絶対音感をもっているのか?そんなことが頭によぎったが最後、四肢は元のカタチを忘却し、取り柄のない顔は外界に溶け込む以上に外界に分散し、透けて、隠微な心持ちで、外的世界のネグレクト。居場所を確かめる手段は富士が其処にあることを眺めるのみで、目の前を純真そうな女子高生が通った。何かしらの花の臭いがした。黄色い線の外側を歩く少女の症状は重かった。僕は破滅型共同体を想起した。アダムとイブに僕らはなれる。若々しい空漠な顔貌者が願望することなどなにもないのは十分知っていた。だからこそ、逆説的に、手を差し伸べた。はめつ。
て?
手はない。足もない。透けてしまった切実な肉体はもうない。嘘を性懲りも無く吐き続けた、その嘔吐の塊は金剛石の固さをもってして恐ろしい鈍器となり、ヘラで剥がすことは出来ない。鈍器で誰かが僕の頭を殴りつけた。殴打はもちろん空を切った。僕の際限のある核分裂を掠め取って。もう、僕はひたすら小石を投げるように、富士に懐郷心をぶつけていた。ホームに並んだ人の列はいつの間にか消えていた。

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