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ゴッホ展

大学をサボって都内を適当に練り歩いた。
これは決して言い分けなんてものではないのだが、ここ半年で、僕が大学にて学んだ最も重要なことは講義をサボることである。座学から学ぶことなど限られているのだから、社会人になるまでの最後の自由時間だから等等、綺麗な御託はいくつもあるが、流浪人みたいな僕は既に先のような御託を述べてサボることを正当化するという、因果の枷を外したのでありやす。兎にも角にも僕はサボるサボる砂漠のサボタージュ。オアシスはどこかしらん?

そう、僕はオアシスを探しているのだ!

上野に寄って、退屈な大道芸をぼけーっと見て、ふと美術館に入ることを思いついた。
上野の森美術館、ゴッホ展で。

ゴッホの絵は「向日葵」「星月夜」くらいしか知らん、ましてやゴッホ自身のことなど。ほぼ無知の状態で彼の絵を眺めた。

僕はおそらく、美を見つめる慧眼など持ってはいないから、僕がゴッホをどう論じたところで誰も興味はないだろうが、いやはや素晴らしい画家である。ちょっと、というか、かなり好きな画家であった。

(これから先退屈な説明、とばすべし)

ゴッホ展は、ゴッホの生涯を追体験するように年代順に絵が並んでいた。「ひまわり」も「星月夜」もなかったけれど。彼が27歳で画家になることを思い立ってから、ミレーのように質素な農民生活を情感豊かに描きたく、オランダにてマウフェに師事する。それからしばらくハーグ派の画家として鍛錬を積む。この頃の彼の絵は灰色や茶色など、色彩が暗い。その後、パリにて印象派の絵に感銘を受け、そのまま傾倒していくことになる。当時ゴッホに影響を与えた画家として、ルノアール、セザンヌ、モネ、ゴーギャンなどの絵も展示されていた。絵具を存分に塗りたくった明るい色調は、モンティセリの影響が強い。フランスのアルルにて、ゴーギャンと同居、お互いの椅子をデッサンしあうなど、画家としてしのぎを削りながら、関係は非常に良好だったらしい。しかし、二人の強すぎる個性が次第に軋轢を生んだことは明らかであり、ゴッホは発作を起こしゴーギャンとの同居生活を解消、療養所に入院する。

(ここから読んで欲しいのよね!)

まあこんなことは全部、絵を見終わった後に知ったことで、自分とゴッホの関わり合いに差し響いたとはいえなかった。

僕はしばしば感じるのだが、またゴッホの絵を見て改めて感じたのだが、絵を文章に還元する、或いは言葉に還元するのは、いささか気が引けるようである。無論、僕の使う言葉で編み出される文章があまりにも劣っているという問題はある。しかし、絵という表現と、言葉とういう表現は、それぞれ異なる層にあるのかもしれない。言葉に付随する「意味」が、言葉を絵という表現から遠ざける一要因なのではないかと思われる(このことについてはいつか記事を書くかもしれない 追記 めんどくさいから書かないかもしれない)。

絵を見て、一瞬で、身体に電撃が走ったり、ああ好きだと思ってしまえば、絵を味わうのはそれでよいのだと思う。そこに言葉の介在はあるだろうか。瞬間のインスピレーションを受ける場合であれば、僕の中に言葉の浮かぶ間はない。

ところがすべての絵がそういうわけではない、一目でわからないものも多々あるだろう。

そういう絵に相対すると、僕はどうしても言葉を使って「理解」しようとする。すなわち、自分の頭の中で説明しようと試みてしまう。

この部分は色彩が色調がどうのこうの、なるほど印象派の技法はかくかくしかじか、、

こうなると、僕は画家というものも、その人の描いた絵も、説明することで、ある部分は明らかになるだろうが、それ以外では逆にとらえどころがなくなって、全体の表象は、僕の前から去ってしまう。これは、絵であれ、一般にアートと言われるどんなものであれ、かなりストレスになる。絵を「理解」するということは疲れるものだ。

今回も同じことが起きた、はて困った。僕の感性とは合わなかったんだと思ってしまえばそれまでだが、僕はもう一歩足を踏み入れたくなる。しかも相手はゴッホである。名高い画家であるのに。何かを受け取ろうと焦慮に駆られる。

こういう時、僕は一度やけになって、言葉を全部吐き出してしまう。よって、ゴッホにありったけの説明をかましてやった。なるほど「理解」はできる。しかしわからん。

しばらく、うろうろ眺めて、絵に対する言葉が尽きてしまった。もう、何も考えず、絵をぼんやり眺めることができた。


すると、ようやくゴッホの絵は、僕の中にやってきた。

僕は深く胸打った。絵を通して、ゴッホの生涯がありあり見えた。
もう一度、年代順に見直すと、ゴッホが成長と苦悩を繰り返している。ゴッホは天才だが、人一倍努力家であるらしい。真剣な趣がある。一方で、なんというか、僕の心にゴッホがしみじみとやってくる。

やはり言葉などいらなかった。無駄な言葉は全て吐き出してしまえばよいのだ。吐き出して、言葉を取り払えば、霧が晴れたように、あたたかな光明が差して、ゴッホは僕に差し響いてくるではないか。

ルノワールもセザンヌも最高峰の画家である。そんなことは、言葉を吐き出した状態でなくても、彼らの絵を見れば一目でわかった。
ゴッホは彼らとは違うようだ。しかし、非凡な、なにより、人間だ。ゴッホである。

今回見た中では「薔薇」がもっとも気に入った。ゴッホが亡くなる二か月前に描かれたものだ。

展示を二周して、僕は退館した。館内の出口手前には今回の展示のグッズが、、、
金欠の大学生の癖して、なにを物欲しそうな目で見る必要があるのだ。我慢だ我慢。

ファイル、ポストカード、ノート、カレンダー。

京友禅の蝦蟇口がすっからかん。

いやはや、やってくれたな、ゴッホめ

君の絵に免じて許してやるけれども。

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