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62_ニヘイさんと姫様の湯 -照湯温泉(明礬)-

 地獄めぐり二日目。残すは血の池地獄と龍巻地獄の二箇所だった。
 地獄をめぐるのは家族旅行のとき以来で、実に十年ぶりとなる。
 

 血の池は名前のごとく、目の前に真っ赤な湯だまりが広がっている。閻魔大王様がいらっしゃるあの世の地獄。数ある地獄の中でも、血の池でぐつぐつ煮えたげられるのが一番怖い。
 
 すぐ隣には龍巻地獄があって、30〜40分に一度、お湯が龍のように轟々と噴き出る間欠泉だ。時間が合えば見ても良かったが、あいにくバスの方がちょっぴり早かった。地獄めぐりは龍巻を残してお開きとなり、そのまま明礬行きのバスに乗った。
 

 別府八湯のひとつとして知られる明礬温泉は、市街地からやや離れた山側にある。これまで約60の温泉を巡った中でも、明礬エリアはわずか一湯。車を持っていないと気軽には来られない。
 
 今日は一日乗り放題の乗車券を買っていたから、ここぞとばかりに明礬のお湯屋を回ろうと決めていた。バスが少しずつ鶴見岳に近づく。本坊主のバス停を過ぎた近くに、入りたい温泉があった。照湯という名のバス停で降車し、住宅街を歩く。さっきまで曇り空が立ち止まっていたはずなのに、細かい静雨が目立ってきた。すぐ止むのを祈って、傘を出さずに歩き続ける。少し先の小高いところに、お目当てのお湯屋はあった。
 
 近づいてみると、壁の側面には鬼瓦がかけられている。小さい子が見たら、きっと夢の中にも出てきそうな怖い顔をしていた。目の前の坂は「えんま坂」というらしく、閻魔大王様の像も祀られている。閻魔大王様と手下の鬼。明礬地獄のふもとで私たちを見守ってくださっている。
 

 照湯温泉。単純温泉。ジモ泉。温泉の名が刻まれた大きな木札の表札はとても趣がある。番台のおばあ様も、まぁまぁ、寒かったでしょう。今日の男湯は姫様の湯よ。ゆっくり温まってきなさいね。心温まる優しい声をかけてくださった。
 
 照湯温泉は「殿様の湯」と「姫様の湯」が日替わりで男女入れ替わる。別府八湯温泉道の説明によると、江戸時代の豊後森藩のお殿様が愛した温泉と言われており、「殿様の湯」の湯殿―風呂場―には当時の石を使っているそう。本物のお殿様が入った湯殿には入れずとも、同じ湯には入湯できる。姫様の湯と書かれた表札を横目に、青色ののれんをくぐった。
 

照湯温泉_姫様の湯


 浴室と脱衣所の境目はわずかな段差のみ。先客が二人いらしたのがすぐに分かった。
 
 浴槽を挟んで左側にいらしたおじいさまは、ちょうど背中を流していた。もうひと方は、右側の奥の方で、じっと目をつぶって座っていた。この方を、ここではニヘイさんと呼ぼう。『風立ちぬ』に出てくる堀越の上司こと黒川さんに顔が似ていらして、なぜか僕のなかではニヘイさんと呼びたかった。木目調の壁に石畳の床と浴槽。浴槽のちょうど真ん中に、壁から湯口が続いている。この辺りは近くに大きな車道もないから、ちょろちょろと流れる湯の音がより一層際立って身も心も安らいでいく。
 
 浴室に入ると同時に、左側にいたおじいさまが湯に浸かりはじめたので、ニヘイさんのそばに座って身体を洗い始めた。
 
 ・・・湯をかぶるとしっかり熱い。海沿いの10号線、鉄輪、明礬と少しずつ山の方に近づくと、お湯も一段とあちちになる。ここはもう、明礬の入り口。冬の雨で奪われた体温をじっくりと取り戻す。
 

 ニヘイさんは数分おきに、湯に浸かる、出るを繰り返していた。ジモ泉は、基本的にどこもやや熱めの湯なので、この光景はよくあること。それでも全身が真っ赤になっているのを見ると、少しばかり心配になる。ただ、自分自身とじっくり向き合う、自分だけの世界に入り込む。それは温泉の醍醐味なのかもしれない。会話はせずとも、同じ湯のなか、はだかんぼ。裸の付き合いという言葉がよく似合う。気づけは自分も出たり入ったりを繰り返していた。地元の方は、ずっと長く使っていらっしゃるから、“慣れ”というものはすごい。
 
 熱い。そう分かっていても、一度身体を冷やしてまた入る。きっと江戸の殿様も、このようにお湯を楽しんでいたのだろう。
 

 外に出ると、雨は止んでいた。
 
 次のバスの時間まで、少し時間がある。バス停まではえんま坂を通って、ちょっぴり遠回りして戻ってきた。
 
 待つこと十五分。ようやく来たバスでさらに上へ。
 
 明礬の湯めぐりはまだ始まったばかり。


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