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スガシカオ『Clover』


1997年9月3日発売の1st Album

自分の青春を彩るアルバムを一枚選べと言われたら、僕は迷わずに本作を挙げる。スガシカオのファーストアルバム『Clover』だ。


本作を初めて聴いたときの感想をひとことで言うなら、
「見てはいけないモノを見てしまった」ような、得体の知れない恐怖と衝撃に駆られた、といったところだろうか。

中2の時、僕は初めてアダルドビデオを観てしまった。そこでは男と女が、裸体になって抱き合っては、互いの大事な部分を結合させるのである。さらに女に至っては聞いたこともないような甲高い喘ぎ声を出す。セックスの何たるかを知らない少年の頃の僕には、脳内を何か良からぬ物質に侵食されるかのような、もう全てが衝撃の光景であった。
しかしその後、見てはいけないという罪悪感の中にありながら、なぜか観るのをやめられなかった。結局18歳になるまで約5年間、親に隠れてこっそり観る日々を何度も繰り返してしまった。今となっては、そういった体験も、大人になるには必要なものだったのだろうと思える。

そしてこの『Clover』は、まさしくそれと似た気持ちを僕に与えた。なぜならそれは、今まで聴いたことがないほどに、攻撃的で、暴力的で、性的で、とにかく想像を絶するほどダークな作風だったからである。

「俺は果たして、この音楽を聴いて良いのか?」
そんな不安に怯えながら聴いていたのが、今でも記憶に新しい。

だが、どういうわけか、そんな本作に心を惹きつけられ、何度も何度も耳に通すこととなってしまった。そして次第に、こんなダークな世界観の音楽をもっと知りたいと思うようになった。
この『Clover』は、僕が青春時代に出会い、その後の音楽観や人生観に計り知れないほどの影響を与えた。そういう意味で本当にかけがえのない、宝物のようなアルバムなのである。


僕がこのアルバムに出会ったのは高1の時。ツタヤでこのアルバムを見つけたとき、裏ジャケのカッコよさと、収録曲のタイトルの独創性に惹かれ、即行でレンタルしたのをよく覚えている。
だって「ドキドキしちゃう」に「ヒットチャートをかけぬけろ」である。なんと初々しい名前だろうか。それなのに、こんなにも渋い写真が裏ジャケに使われているのだ。31歳にして自身初のオリジナルアルバムと考えれば必然ではあるが、若さと青臭さに満ちたはずのデビュー作とは相反するような「成熟さ」が、この裏ジャケから既に滲み出ていたのである。
その二面性を感じ取った瞬間、これはとんでもない名盤かもしれない、という予感が走った。すなわち僕と本作との出会いは、いわゆるジャケ買いならぬ、「裏ジャケ買い」であった。

本当にカッコいい、裏ジャケ。

一抹の期待と不安を胸に抱え、CDプレーヤーにこの作品をセットする。
「前人未到のハイジャンプ」の名前の通り、渋い雰囲気を醸し出すアコギが主体となった1曲目から、既に名作を予感させる。
「なれあいの方法論ってシラけるんだ、いつまでガマンすればいいかな、ぼくのチカラで壊していいかな」という歌詞からは、このファーストアルバムで、とんでもない作品をブチかますんだという、野心のようなものが感じ取れる(それでオリコン10位という快挙を成したのもカッコいい)。


そして2曲目。「ドキドキしちゃう」のイントロで、度肝を抜かれた。
ーーなんだ、この攻撃的なシンセサイザーは!?
毒々しいというか、セクシーというか、とにかく高校生のガキには衝撃的な音であった。かと思えばDmコードのダウナーなストロークに乗せて、こんな歌詞を歌い出す。

ぼくらが確かに いまいい大人になったからって
全ての事を 許したとでも思っているのかい

スガシカオ「ドキドキしちゃう」歌詞

怖い。
「ドキドキしちゃう」という可愛らしいタイトルとは裏腹に、とにかく腹黒い楽曲である。こんな捻くれたラブソングを、僕は聴いたことがなかった。巷に溢れる、中高生に媚び売るだけの安っぽい恋愛歌とは訳が違う。
この「ドキドキしちゃう」は、単なる恋の病によるものというだけでなく、自分に振り向いてくれない想い人への憎悪だとか、そういうどす黒い感情が背景には潜んでいるのだ。歌詞の細かい状況については、聴き手によって様々な解釈が成り立つだろうが、男性ならば一度は経験したことがあろう、女性の冷酷な態度に対する憤り(人によっては、浮気された嫉妬なんかもその類に入るかもしれない)を吐き出している。

あの時も ぼくはほんの少し考えていたんだ
君に好かれるためには どうすればいいのかって
コビをうりまくって やさしい人になって
いまでもドキドキしちゃう

スガシカオ「ドキドキしちゃう」歌詞

ーーこれも、男の本質をよく見抜いたフレーズである。
凡人ならタブーとして扱ってしまうような感情を、スガシカオは何の躊躇もなく歌い上げてしまった。当時の僕にとっては、この時点で驚愕だったのだが、次曲以降には、さらなる衝撃の数々が待ち構えていた。


3曲目の「SWEET BABY」。さらにダウナーなギターリフが、聴き手の恐怖を掻き立てる。前曲に垣間見えた、男性の女性に対する醜い感情は、この曲でいっそう露わになっていく。
「君が知らない男性にメチャクチャにされる瞬間を、ぼくの肥大した本能は望んでいいのか」。つまり性愛がテーマである。ここまで露骨にそれを歌ってみせるアーティストがいることに、ただただ驚愕であった。岡村靖幸とか峯田和伸(銀杏BOYZ)とかがそれに匹敵するだろうけど、高校時代はスガシカオ以外にそんなアーティストは知らなかった。
それにしても「ぼくの精神状態は教科書のように健全だ、君との愛の問題について四六時中考えている」というフレーズを聴くたびに、一体全体どこが健全なのかとツッコみたくなる。


しかし、スガの勢いは止まることを知らない。
4曲目の「月とナイフ」は、アコギの弾き語りを基調とした静かなバラードだが、その歌詞が非常に暗く、暴力的で、残酷である。

ぼくの言葉が足りないのなら
ムネをナイフでさいて えぐり出してもいい

スガシカオ「月とナイフ」歌詞

怖すぎる。映像作品なら15禁不可避である。
しかし、とんでもない恐怖を催す一方で、究極に切ないこのフレーズ。
「僕の想いが届かないのなら、この命なんかいらない」。そんな感じの歌が百人一首か何かにもあったような気がするが、スガはそれを、こんなにも生々しく描いてしまった。しかし、この生々しさが、悲しさをよりリアルに引き立てている。こんなにも切ない表現を思いつくまでに、スガはいったいどのような人生経験をしてきたのだろうか。
これまた、初聴き当時の僕に相当な衝撃を与えた曲であり、人を愛するってどんなことだろうといったことを、深く考えさせられた作品でもある。
(ちなみに歌詞中の「君」は自殺してしまったという解釈もあり、そう思って聴くと成程と思う箇所が多い)


ここまでシリアスモード全開であったが、シリアスなだけがスガシカオの魅力ではない。彼はのちに、「このところ ちょっと」や「Go! Go!」といったコミカルな名曲を書いているが、そういった要素も彼を語るうえでは、また重要なのである。本作もまた、それまでのシリアスな世界観とは一転して、中盤で一気にコミカルな作風へと移り変わる。
そういう意味で明と暗のコントラストが非常に巧みであり、聴きやすいアルバムになるよう、巧みに作りこんでいるなと思う。

5曲目「In My Life」では、「父親は今日も抱えこんでる、今日のニュースはきっと明るいニュース」と、自分の家族を引き合いに出して、強烈な皮肉を吐いている(ちなみにビートルズの同名の曲とは、何の関係もない)。
こういう方向性は、次作『FAMILY』の「日曜日の午後」でより鮮烈なものとなっている。近いうちに次作についても書きたい。

そして6曲目。「ヒットチャートをかけぬけろ」。なんて独創的な名前。
こんな挑戦的な楽曲をデビューシングルにしてしまう心意気。スガシカオを知った当時はやはり衝撃的だった。ちなみにこのシングルは、皮肉なことにチャート圏外となり、お世辞にも売れたとは言えないセールスに終わったのだが、本作『Clover』は、これといったヒットシングルがない(黄金の月がやや話題にはなったが、全国的ヒットには程遠い)にも関わらず10位にまで昇りつめ、音楽ファンから絶大な支持を得ることに成功した。まさにヒットチャートを駆け抜けたアルバムといえる。

7曲目の「ドキュメント'97」。これまたコミカルな意欲作。とある電話の内容をそのまま歌詞にしているのだが、どういう内容の電話なのかは、初聴きから6年経った今でもよくわからない。主人公は大事な電話を待っているというが、いったいどんな電話を待っているのだろうか。

そんなコミカルモードも、8曲目「サービス・クーポン」で終わりを告げる。ダウナーな要素がここで復活し、次曲「イジメテミタイ」へのつなぎの役割を見事に果たしている。
Bメロの「しかるべき日々の問題」の部分とか、2番サビの後のシンセとサックスの掛け合いとか、聴きどころ盛りだくさん。


そして、ここからが本作のクライマックス。
9曲目の「イジメテミタイ」を初めて聴いた時の衝撃は、もう一生忘れないであろう。それもそのはず、歌詞が18禁レベルで性的なのだから。

めかくしをつけて 両手をゆわいて
スタンドをつけて 言葉でなじって

もっともっと激しくいじめてみたい
いつまでもいつまでも抱きしめていたい

スガシカオ「イジメテミタイ」歌詞

完全にアダルトビデオの世界である。僕が冒頭で、あんな卑猥な例えを出した理由が、お分かりいただけたはずだ。本作に対して衝撃的であったと何度も述べているが、その所以の半分はこの曲にあると言ってもいいくらい。
こんな過激な内容を歌詞にしてしまっていいのかと、そして自分はこの曲を聴いて良いのかと、戸惑いを隠せなかったのを鮮明に覚えている。

エロからグロまで、もはや彼の詞に禁じ手などありはしない。しかし、深入りしてはいけないと思えば思うほど、聴き手を底なし沼にまで引き込んでしまう。スガシカオの世界は本当に末恐ろしいと、今でも思うのだ。

ちなみにこの曲はギターの抑揚も秀逸である。Bメロで静かなアルペジオを鳴らし始めたかと思えば、サビで力強いストロークが登場し、アウトロでは「絶頂に達する瞬間」を表現するかのような激しいソロをブチかます。それがプツンと切れるように終わったかと思えば、ラストの「黄金の月」へつながっていく流れも心憎い。


最後は、歴史的名曲ともいうべき「黄金の月」だ。
正直に言うと、この曲を初めて聴いた時はあまり印象に残らなかったのだが、聴けば聴くほど歌詞の深みにハマっていき、気づけばあらゆる日本の楽曲でトップクラスに思い入れのある作品となった。

ぼくの情熱はいまや 流したはずの涙より
冷たくなってしまった
どんな人よりもうまく 自分のことを偽れる
力を持ってしまった

スガシカオ「黄金の月」歌詞

高校生の頃から、この歌詞には刺さるものがあったのだろう。しかし、20代になった今改めて聞くと、本当に自分のことを歌っているように感じる。

情熱に満ちていたはずの日々。悔しくてつらくて流した涙。なのに今では、そんな過去がウソのように、情熱を失ってしまった、空っぽなだけの自分がここにいる。そんな情けない自分を誰にも悟られたくなくて、どんな人よりもうまく自分のことを偽って生きてきた。どうして僕はこんな日々を歩んでしまったのだろうか。この曲を聴くたびにそれを思って胸が痛くなる。

なんとも暗い楽曲ではあるが、その反面、何よりも勇気を与えてくれる、力強い歌詞だとも感じる。なぜなら、ラスサビをよく聴いてほしい。

ぼくの未来に 光などなくても
誰かがぼくのことを どこかでわらっていても
君のあしたが みにくくゆがんでも
ぼくらが二度と 純粋を手に入れられなくても

夜空に光る 黄金の月などなくても

スガシカオ「黄金の月」歌詞

一見すると暗い言葉ばかりが並んでいるが、よく見ると、この5行全てが、「なくても」といった逆接の言葉で終わっている。つまりこれらのマイナスの言葉の後には、本来何かしらプラスの言葉が続くということだ。
しかし、スガはそのプラスの言葉を明示してくれない。これがこの曲の最もすごいところである。決して直接的には歌ってくれないが、それでも絶望的な言葉の陰に、ほんのわずかな希望を見出させてくれるフレーズだ。

どんなに絶望的と思える状況に陥っても、
いつかどこかに訪れる希望へと歩き続けることを、どうか止めないで。

そう歌いたいのかもしれない。



高校生だったころから、僕もすっかり大人になってしまった。
それでも、あの時に味わった衝撃と感動を、僕は一生忘れないって決めている。なぜなら『Clover』は、自分に正直でいることの素晴らしさ、さらには恋愛の醜さや切なさ、しまいには人生の何たるかまで、リアルに突き付けてくれたから。

「イジメテミタイ」とか、あんなエグい曲を数多く書いてしまう人だからこそ、彼の歌にはウソがないんだろうなと思う。そしてその姿勢は、デビューから26年が経った今でも、変わらずに色褪せずにいる。スガシカオは、その身をもって、その自由な音楽性をもって、どんな時も自分らしくあれって、僕らに叫び続けているんだと思う。

「ドキドキしちゃう」「月とナイフ」に関しては、ああいう歌詞を受け付けない人だっているだろうけど、それでも辛い恋とか色んな人生経験をした人こそ、その辺の薄っぺらいラブソングでは到底感じられないような、リアルな心情を重ねて聴けるんじゃないかな。

そして「黄金の月」。この曲はもう何も言わないで聴いてほしい。そして、全ての悩める人たちの心を、ほんの少しでも照らしてほしい。
それこそ、夜空に光る黄金の月のように。たとえそれが存在しなくたって、少なくともこの曲は、僕らの中で光り輝き続けるから。


そんなことを思いながら、雨降りの夜にこんな文章を書き連ねた。
明日はきれいな月が見えるといいな。


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