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傷つかずにはいられない

信じられぬと嘆くよりも
人を信じて傷つくほうがいい

「贈る言葉」

時々頭に流れる。
いや、けっこう、
コトあるごとに流れている。
こんな状況に出くわすと
(そう私が感じたに過ぎないが)
この部分の歌詞だけ思い出す。

3年生までいた大分の小学校。
学校が今月の歌を決めていたから、
帰りの会などで歌った。
誰先生の文字か分からないけれど、
手書きのかくかくとした文字で
歌詞が書かれていた。
もう30年以上前になるというのに。
9歳の私は、この歌はいい、
と思いながら歌っていた。
でも、この部分だけを
いまだに思い出すのはなぜなのだろう。
9歳の私はもうあの頃から
こんな風に思っていたのか?

子どもの学校に行くと、こんな場面がある。
親たちが集まった時の、
あの何とも言えない空気がそこにあって。
知り合いなのに、目を合わせても
挨拶を交わさないとか、
ちょっと、がっくりしてしまう。
あれぇ、私、会釈したんだけどなあ。
でも、向こうには向こうの事情がある。
気づかなかった可能性だって大いにある。
あなたとは挨拶したくないからしない、
という選択だってある。
それは自由だ。
「致し方なしだよ」
ともう一人の私が私に言ってくる。
そして、またこの曲がすかさず流れる。
この部分だけ。

表現するということもまた、
傷つくことを恐れていてはできない。
たくさんの人に読まれるということは、
いいと思う人と、
そうではないと思う人がいる。
それは覚悟しておきたいものだ。

さまざまな有名とされる方たちも。
好きだという人と
私はあんまり好きじゃない、という人と
どっちでもないという人と、
存在すら知らないという場合だってある。

「好き」だって変わる。
その時は本当に「好き」だったとしても。
時とともに好きではなくなる場合もある。
銀色夏生さんの「行く道」という詩にも
「好きなものは刻刻変わる」と書いてある。

『すみわたる夜空のような』
という銀色さんの詩集を大事にしている。
この本のタイトルでもある詩。
私はこの詩を、
拠り所にしているところがある。

傷つきながらも(傷ついたという
思い込みの可能性は大いにあるが)
ベースにはこれがある。

「すみわたる夜空のような」

何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいより
すみわたる夜空のような孤独を

『詩集 すみわたる夜空のような』銀色夏生
角川文庫