第1部 新入社員編
はじめまして。かめ🐢と申します。
星の数ほどある記事の中から、こちらをご覧いただき誠にありがとうございます。
この自伝は記録的な意味合いが強く、特に有益な内容を狙ったモノでは御座いません。
ただ、一人のサラリーマンが経験した会社での出来事を徒然なるままに記そうと思います。
いいねやコメントをいただけるとやる気が出て喜びます。
それではどうぞ。
入社式~配属
20xx年4月 私はとある上場企業(製造業 中堅)の入社式に臨んでいた。
高校、大学と全てストレートで進んでいたため当時22歳のピチピチ新人だ。
同期は16名。多すぎず少なすぎず丁度よい人数だろうか。
幸い皆、良い人たちであっという間に仲良くなった。
社会人とはいえ、新入社員はまだ学生と何ら変わらない。年が近い人がいればすぐに仲良くなってしまうものである。
入社してからの大まかなスケジュールは
4月中旬まで :本社にて座学
4月下旬~5月下旬:製造現場、研究所、営業同行などのOJT
5月末 :配属発表
6月~ :配属、それぞれの持ち場で業務開始
と言った流れである。
これから自分の新しい社会人生活が始まるんだ!と意気揚々、していたのを覚えている。
月はあっという間に流れ、4月下旬最初の給与日を迎えた。
いわゆる「初任給」である。
私は入社してから現在に至るまで毎月給与をエクセルに記録している為(変態?)、当時の記録も残っている。
以下が、私が初めて受け取った給与「初任給」の内訳である。
額面:203,040円
控除: 75,152円
手取:127,888円
少なwww
自分で書いていて思わず笑ってしまった。
額面もさることながら、何も考えずに財形、持株会などにお金を預けた結果
初任給の手取りは13万を切る結果となってしまった。
当時は実家暮らしだったので、特にこの手取りでも困ることはなかったのだが、まあ初任給なんてこんなもんだろう。
昨今のインフレ・賃上げ祭りから見ると心もとないが、当時はこれが
大卒上場企業に就職したサラリーマンのリアルである。
その後、初任給で無事に両親、祖母、兄弟を連れて肉の万世に行き、美味しいハンバーグを食べたのは懐かしい思い出である。
更に月日は流れ、あっという間に5月末 配属発表の日となった。
当時私は関東在住だったため、配属先も近辺の営業所を希望していた。
そもそも当時は「配属」の意味すらよく分かっていなかったと思う。
漠然と自分は都内で綺麗なスーツを着て颯爽と働くサラリーマンを
想像していた。
期待と緊張が入り混じる中、配属発表。
次々と同期の配属先が発表され沸き立つ本社会議室。
そして私の発表の出番となった。
人事「かめ🐢くんは 名古屋配属とする・・・・っ!」
🐢 「!?」
お?ん?え?なごや?
縁もゆかりも無いし希望もしてないんだが?
なぜ??
名古屋で何するの?←
当時、突然期待に反する配属先だったため、頭が真っ白だったが
同期も同じような状態だったため、とりあえずその場を取り繕い過ごした記憶がある。
配属発表されてからの動きは早かった。
その日のうちに、各自が配属先の上長に電話で
「配属が決まりましたのでこれからよろしくお願いします」 と一報。
家に帰りすぐに引っ越しの準備が始まった。
配属発表の直後は頭が真っ白だったが、よくよく考えてみると
国内だし、それなりに都市部だし、何なら初めての一人暮らしも出来るし
なんかすごく楽しそう!! と思えるようになっていた。
両親にも報告し、頑張ってきなさいと激励もいただいた。
当時の自分は新卒特有の根拠のない自信に満ち溢れていた。
やってやるぞ と。
当時の私は、配属先の名古屋で起きる激務の日々をまだ夢にも思っていなかった。
着任~配属研修
6月上旬 同じく配属された同期2名と私を含む3人は、配属先の名古屋事務所で現地の総務担当者の話を聞いていた。
会社がアパートを借り、格安で社員に貸してくれる いわゆる借上げ住宅の説明である。
築3年。間取りは1K(6畳) ロフト(4畳)もついている。 風呂トイレ別 2階南西向き。家賃5,000円。会社まで自転車で10分。
家の周りにはコンビニ、スーパー、美容院、大型モール(イオン)もあり生活しやすい。
いいじゃん!いいじゃん!一人暮らしひゃっほう!
と感じたことを覚えている。
実家暮らしとはいえ、掃除や簡単な自炊、洗濯くらいはやるときはやっていたので、そこまで不安もなかった。
当時6月だったが、その頃にしては暑く、会社帰りの風景がものすごく明るくキラキラして見えた。
ただただ、一人の時間、自分の城、自由な生活が出来るということが先行し
希望に満ち溢れていたんだと思う。
一通りの説明、引越しに関する役所などの手続きを済ませ、待望の
新生活がスタートした。
今更だがこの時点での配属先は営業所ではなく、技術系の部署であった。
人事部の計らいで、いきなり営業配属されても困るだろうから、技術部門で製品や仕組みを理解する期間(9月末まで)を確保してくれたようだった。
いわゆる研修の延長のようなものである。
技術系部署の方々は皆さん優しかった。
何も知らない私に対して、高圧的にふるまうこともなく、手取り足取り教えていただいた。
赴任後の不安も減り、名古屋飯(味噌カツ、ひつまぶしなど)、休日は近隣の県(岐阜など)に遊びにいくなど、充実した楽しい日々だった。
あっという間に技術部署での研修期間(6‐9月の4か月)が終わり、
営業所へ異動となった。
たったの4か月とはいえ、製品の知識を身につけ名古屋での暮らしに慣れた状態で営業所配属されたのは、良かった。
引き続き、全力でやるぞ!! という意気込みで息巻いていた。
そして10月から、地獄の営業所生活が幕を開ける。。。
営業所着任 社会の厳しさを知る
4か月の現場研修を終え、10月から営業所に配属された私は、他営業所へ異動してしまう先輩の引継ぎを受けていた。
引継ぎを受ける中で感じたのは、私は思っている以上に、一般常識が
無いのかもしれない という点である。
いわゆる「箱入り」で育ったので、「営業だったらこれくらいは~」とか、「営業なのに・・・」と言った固定観念からくる期待値を理解出来ていなかった。
名古屋と言えば、言わずと知れた世界最強の自動車メーカー T自動車様のお膝元である。
当然私も多分に漏れず、同社を担当することとなった。
あれだけの超大企業なのだから日本中に工場があるかと思いきや、親会社直系の工場は愛知県に集中している。
東南海地震が来たらどうするんだろうとおもったが、とにかくめちゃくちゃ工場が集約されているのである。
そして、T自動車に部品を供給する大手自動車部品メーカーも各所に点在しており、ある種一つの国家のような状態といっても過言ではなかろう。
私はT自動車を中心に、大手自動車部品メーカー(いわゆる1次受け2次受け ティア1、ティア2と呼ばれる)も担当した。
事務所のある名古屋から平均片道2時間往復4時間、帰りの時間(夕方)は渋滞することもあり往復5,6時間なんて日はザラにあった。
新入社員の頃の私は、何も考えず愚直に動いてしまって、効率的な営業活動もまるで出来ていなかったように思う。
先輩に言われた通り、「とにかく現場にいけ!!」の言葉に忠実に従い、毎日、蒲郡・豊橋・田原方面(愛知県の東側)を訪問したものである。
中京地区ではT自動車が築いた、
T田生産方式
ジャストインタイム(JIT)
カンバン
カイゼン
という考えが染み込んでおり、基本的に同社の指定する
Q(品質)、C(価格)、D(納期)は厳守しなくてはならなかった。
そのため、当日の夕方に依頼され、次の日の朝に報告などというドラマのような対応も日常茶飯事で、とにかく忙しい。
印象的だったのは、5時半に定時の鐘がなるのだが、それを「第二の始業の鐘」と呼び、毎日早くて22時遅ければ2,3時まで働く日々が3年間続いた。
無論、この3年間何も無く平穏に過ごせた訳もなく、鬼のような所長に毎週月曜日は激詰めされ、課長係長には、お前は使えない 営業の才能が無い
技術センターに戻ったほうが良いんじゃないか という罵声も幾度と浴びた。
しかし、前述のとおり、私は世間一般的な常識が少しなかったのか、若手は皆こんなものだろう、こんな辛いのは私だけでは無いはずだと思い込んでいた。
そのため、信じられない方もいらっしゃるかもしれないが、一度も辞めたいとは思わなかったのである。
(日曜の夜に心臓がバクバクして冷や汗をかき、寝られないという状態にまでなっていたが、それでも辞めるという発想はなかった)
身長179センチある私も一時期、体重が57キロまで減少していたこともある。
今思うと本当に恐ろしいし、あのまま続けていたら、確実に体を壊していたと思う。
幸い、一部のお客さんは若い私を受け入れてくれて、色々と話を聞いてくれたり、お菓子をくれたり優しいほっとする時間も少しあった。
あの時出会った全ての方々に今は感謝の気持ちでいっぱいである。
今振り返ると、なぜ自分はこの激烈な労働を続けることが出来たのか。
精神面も含めて思いつくことを箇条書きしてみる
単純に若かったから(22~24歳)
ご飯をしっかり食べていたから(一時期は瘦せていたものの、基本3食しっかり食べていた)
土日は遅くとも12時には寝ていたから
この辛さは自分だけでは無いと思いこんでいたから
一部のお客さんなど見方になってくれる方が少なからずいたから
なんでこんなに怒られないといけないんだという怒りが原動力になっていたから
同期が心の支えとなっていたから
余談ではあるが、当時
がむしゃらに働いて3年 貯金も大してなかったが、どうしても新車が欲しくなってしまい全額頭金に回して、3年目の3月に車を購入。
貯金は0円となった。
今思うと、仕事で疲れすぎて正常な判断が出来なくなっていたのではと思う。しかも購入した車はT田ではなくM田。まさに謀反。
しかし、仕事で嫌というほど見てきた車を私は買うに気にはなれなかった。
そうして、4年目の春、人生の転機を迎える。
新車を購入して2か月経過したGW明け最初の会議。
いつも通り営業所長に激詰めされると思いきや、その日は何も言われず。
会議の後に一人だけ部屋に残され、所長から衝撃の事実を告げられた。
所長「🐢くんは、、、、、
6月1日から東京本社 情報システム部に異動!!!」
🐢 「!?」
お?え?あ? 東京? 本社?? 6月1日???
情報システム部????????
頭が真っ白になった。意外にもその時思ったのは、この辛さ苦しさから逃れられる安堵ではなく、営業を続けられない 続けさせてもらえない 烙印を押された こんなに頑張ってきたのに、、、
という落胆、悲しさ、虚しさ、憤り であった。
今までの全てが否定された気持ちになり、3年間で一番落ち込んだ瞬間だったかもしれない。
誰がどう見ても左遷。 営業としてのキャリアは絶たれ、知識も経験も無い
何をやっているのか全く分からない 情報システム部 という謎の部署への異動宣告。
これは辛かった。
それでも時間は過ぎていく。
新しく配属された新入社員に仕事を引き継ぎ、名古屋を出ていく準備を進めた。
縁もゆかりも無い土地 愛知で3年間仕事を頑張った思い出は私の中で一生の思い出である。
大した実績も残せなかったが、それでも毎日一生懸命がむしゃらに働いた。その結果、異動ということになってしまったが、今振り返ると無駄なことは何もなかったと思える。
あの時の経験が確実に今の自分を作っていると断言できる。
過去の経験を活かすも殺すも今の自分次第。
まだ25歳だった私は徐々に前向きに、東京で頑張る決意を
したのであった。
第一部 完
第二部 中堅社員編 へ 続く
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