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最近の状況

時間がのっぺりしている。思考がないせいだろう。ぼんやりとユーチューブを見て、fpsをし、またぼんやりとユーチューブを見る生活。考えていることがなくなった。考えるための主題が消えた。少し前まで哲学に興味がわいて、必死こいて読んで考えていたが、思考の筋肉が突然伸び切ってしまって、そこからぼんやりと過ごすことが多くなった。こうなったのにも私なりの理由はある。少し前まで、私は絶対の真理を求めて哲学へと接近した。この絶対とは、私にとっての絶対などではなく、人類のこれまでのすべてを内包し、そして総合した、究極の一つの真理を求めて。

哲学というのはどうやら絶対の真理の学ではなさそうだ。いやそんなものはないことは何となく知っていた。ただ哲学と称されるこの営為が、真理的なものに近づいていくための学問だと思い込んで私は接近していった。触れてみて、私の想像通りではなかったが、それに近い行いであることも認識できた。しかしながら残念なことに、哲学というのは、哲学者個人の絶対の真理であって、人類すべての知的営為を内包した、ただ一つの真理ではなさそうなのである。

おそらくこの一つの究極的真理を求めるこの心情が私にとっての宗教なのだろう。人間は千差万別、一人として同じものはない。同じように見えても違う。ただいくつかの方向性はある。その方向性も、途方もない数の種類である。ただ一つの真理などあり得ないのだろう。究極的なただ一つの真理などあり得ないという真理だけが残った形である。

宗教的なテキストも少しばかりかじった。だが何となく読み始めるとすぐにこれはどうなのかと懐疑の念を抱いてしまう。死後の世界など信じられない。この世が創造主によって作られたとも思えない。言行一致していないことを悪として罰る気にも一つもなれない。

私は、私を支えるただ一つの世界観を強く欲している。私たちの社会で流通している世俗的な価値観にはなじめなかった。それ以外の思想が必要なのだ。ただそれ以外の世界観に触れても、どうしてもこれは独断的であると、猜疑してしまう。

己を支える世界観を欠いた今、私は少しばかり危機的な状況にいるのかもしれない。これまで素直に収まっていた潰瘍性大腸炎が、複雑なものになりつつあるのも、私の今を反映しているからなのかもしれない。

追記
マキャベリズムや、現実主義に強く惹かれるが、それを完徹する強さが、私には欠けている。白猫でも黒猫でも、使える猫はいい猫だと私も思う。

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