4年前に書いたテキストの一部

“此処で生きている”ということは此処からは逃げられないということ


街を当てもなく歩くことが好きで、その街がどう、とかは正直どうでもいい。歩いていて楽しい楽しくない、好き嫌いは何となくあるけど、話題の店、グッとくる道路や公園、面白い地理などをあまり気にすることなく、まあそのうちあるでしょ、と思う。利便性の高い場所や自分の気に入った空間を見つけるとそこにずっといるし、あんまり数を打って色々探したりはしない。
良い空間を探すために街を歩くのではなくて、街を歩く、という行為は自分が見つけた街と寄り添う自由な手段の一つなのかもしれない。と一つのそれらしい回答を持ってまた歩き続ける。
しかしその反復の中で一つの疑問が生まれる。
それは、この街で一番ダサいのは自分なのでは、という問いだ。
最初に言ったように人目を気にする性格からか、急に自分が何故ここにいるのかを考えてしまうからか、何処に居ても一番自分がダサいのではないか、思いながら行動するようになった。住宅街を闊歩していても、別に世帯を持っているわけでもないし、原宿を歩いていても別に買い物をしないし、オフィス街を歩いていても仕事の合間ではない、理由もなく歩いていることに急に不自然な感覚を覚える。歩いているのは自分なのに。一旦服が〜顔が〜とかは置いておいてほしい。理由とか目的とか目標とか、そういった動機から解き放たれた自由な時間を過ごしていたい、と感じてしまう。例え行きつけの場所にいても、2秒ぐらいのその感情でいきなり居心地が悪くなったりする。それは何か二次的な理由ではほとんどなく、記述したような全て自分から立ち上がってくる「何かをゲットしなきゃいけない」と言った脅迫みたいなものだ。
そのうちそれが転じて、結局自分も何かしらの理由をつけて何かにコミットしていないと不安なのではないかと感じてくる。自由を求めているはずが、いつの間にか自身に制約を作り、その枠の中に自身を当てはめて、疎外感を感じるのを防ぎたいと思うようになる。それ自体が窮屈と分かっているはずなのに。自分がどうして歩いているのか、分からなくなる。
街は前提とか(飲屋街、複合施設、お洒落、文化の在る街~みたいな)適切な距離感を内包しているので、それに合わせられない奴は問答無用で排除される。居場所を作るには、大体のことがあっても、普通に何事も楽しめる人間であった方が楽だ。街やその街を構成するモノたちから、いちいち簡単なことに悩み、大したことないことでゴチャゴチャ考えるやつは必要ないって言われている気分だ。
そんなことを考えながら歩いていると、しれっと良い看板やグッドな雰囲気がチラチラと顔を出してくる。
淀んだネガティブな気持ちが一気に晴れる。簡単か。
今度行こう、と心に決めて数分経つと、店の名前も位置も覚えていない。なんてザラだ。
ただ何となくこの街にも自分が好きだと思えるものがあって安心してしまう。歩くことは楽しいけれど、街を生きる以上自分は何かでなければいけないのだろうか。
街は変化する。人間が歳を取るのと同じように。しかし人間は老いていくが必ずしも街はそうではない。郊外も都会も同じだ。実際僕の住んでいる街の駅前もこの十年で整備され、郊外なりの複合施設やロータリーが出来た。人間が街を使い易いものにするための、再開発とまではいかないけれどれっきとした進化だ。
都会の街の変化は恐ろしく速い。街どころか文化が早い。人間の消費行動が必ずしも経済にコミットしていない現在では、成熟を迎え切らないうちに(寧ろ伸びしろがないものも含めて)消滅していったりする。人間は新しいものについていけなくなり、昔からある価値観を大事にし過ぎて、とりあえず変わらないものとだけ生活して和んでいると急速に衰退していく。面倒なことに、人間もアップデートが必要なのだ、と思う。
僕は自分がダサくなること、時代に遅れること、何物かでいなければいけないことに圧迫感を感じている。

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