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寝坊の経験が活きる

「朝が強い」と断言できる人はそういないだろう。

みんな朝には弱い。特にこの肌寒い季節となれば。

*

一度起きたことは覚えていた。

なんとなく目覚ましを止めたことも。

気持ちよく時間が過ぎていく中で、ふと気づいてしまったのだ。

「目覚ましを止めて…それで? 寝てる時間が長くないか?」

かすむ眼で目覚ましを睨みつける。

時刻は7時半。

会社の始業時間は8時。

「久しぶりにやっちまったなぁ」

この感覚。僕はあの地獄に帰ってきてしまったのか。

*

十年近く昔、あのときはまだ高校生だった。

僕の住んでいた所はひどく田舎で、電車やバスなどの交通網が発達しておらず、高校生の通学手段と言えば専ら自転車であった。

通っていた高校は隣の市にあったので、自転車をかっ飛ばして行っても40分はかかる。

日によっては風の日も雨の日もあるが、それでも自転車で向かうしか方法がない。

そしてどういう訳か、天気が悪いときに限って寝坊してしまうのだ。

「いつもよりも時間がかかるのに…」

とにかく自転車をすっ飛ばすより方法はない。
ギアを重くして常時たちこぎ、呼吸をしすぎて喉から血の味を感じながら、ギリギリの状態で登校していた。

*

社会人になってからは昔より自制のきく生活になり、寝坊などとは無縁だった。

ただこのところ急に冷え込んできたところもあって、寒さのせいで無意識に二度寝をしてしまったのだろう。

支度をしてギリギリ会社に間に合うかどうか瀬戸際の時刻だった。

少なくともこれまで7時半まで家にいた経験がない。

ただ高校で培ってきたギリギリの感覚。

その感覚が僕を冷静にさせる。

再度確認。時刻は7時半。出社まで残り時間30分。天気は快晴、天候による問題なし。

条件としてはむしろ、ぬるい。僕はこれまでもっと難易度の高い地獄のような状況を乗り切ってきたのだ。

焦りはなかった。淡々とできることと省くことを仕分けた。

シャワーの蛇口を回して温水になるのを待ちながら歯を磨く。カラスの行水のごとくシャワーを浴びる。

ご飯は無理。時間がない。

服は既に用意がある。が、髪は乾かせない。

コンタクトを入れる。保湿クリームは塗れない。

軽量にしてある荷物を持つ。ゴミを出す余裕はない。

自転車に跨ってからは計算、計算、計算。

この区間をあと何分で走るか、どの時点でどこまでいれば間に合うのか。

具体的にイメージして目標を通過するときに時計を見る。予想通りの時刻だ。

駐輪場に自転車を止めて、小走りで事務所に向かう。もうここまでくれば安心だ。

「あめすくんは休みかな」という顔をした上司に颯爽と挨拶をして、始業の合図とともにデスクにつく。

そして僕は何事もなかったかのように仕事を始めた。

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