手を合わせるほど、信じているものはない

昨日外に出ていて花粉を多量に吸ったためか、今日は一日身体が重かった。

強風の中練習していたので、単純に筋肉痛になっただけかもしれない。


気分はそれほど悪くない。むしろ良い方だ。少しの希望を頼りに生きることを繋いでいる。

希望を全く持たない生き方と、少しの希望を持つ生き方は、どちらの方が良いのだろう。そんなことを考える。良い生き方が欲しいのか、楽な生き方が欲しいのか、より苦しまずに済む生き方が欲しいのか。

希望を全く持たないのなら、絶望も落胆もしない。その代わり、見える世界は全てグレースケールだ。

少しの希望を持って生きるなら、世界は少しだけ彩られる。少しだけ前向きになれる。それでも、希望があるなら、必ず落胆が待っている。

少しの希望が続いていく、という生き方はない。少なくとも自分には。希望は持った瞬間から、いつか壊れるのを待つばかりだった。いま心で温めている希望だって、それが弾けた時どうするつもりなのだろうと、今から考えてしまっている。

そう考えなくても良い人生を送れていたなら、自分の人間性もいくらかマシだったろうか、とか考える。何かを始めるのに遅すぎるということはないだとか、まだまだ若いとか、人生始まったばかりだとか、そんな言葉ばかり聞くけれど、少なくともこの27年間は、自分の人間性をどこかしらの方向に捻じ曲げるには十分な時間だった。

あるいは捻じ曲がった性根でも、それで良いさと開き直れるくらいの明るさがあれば、いくらか結果は違ったのだろうか。

捻じ曲がったものを自覚できる程度の思考力があり、曲がったことを許せない真面目さを持っていたことが、自分を苛んできた。持ち合わせているものが尽く噛み合っていない。ぐちゃぐちゃだ。自分はそういう人間だ。

自分を好きになることは出来ないけれど、まあ自分はそういう人間さと、諦念にも似た形で、自分自身を認めることは出来るようになってきた。けれど、そこには一種自暴自棄な態度があって、それが間違っていると自分のバランス感覚が告げていた。どこまでもちぐはぐだ。

ちぐはぐが、矛盾が、歪みが。いつか、夜明けを迎えるように溶けてなくなる日が来るんじゃないかと、思春期の自分は信じていた。そう信じて生きるしかなかった。それが空想の類であったことは、あれから10年近く現実を生きてきた今の自分がよく知っている。

それでも、もしかしたらと。何か一つのきっかけで、価値観が一変してしまうような、そんな出来事があるんじゃないかと。そう、ずっと期待してしまっている。そんなものはないと、思い知ってきたはずなのに。

次の希望が自分を変えてくれるんじゃないかと、愚かにも、縋るような気持ちで、願っているのだ。

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