夏の夕方、現実ってやつ

十五夜の翌日。

月のある夜ってこんなにも明るい。そんなことを考えながら眺めていたら、急に月の手前を雲が横切った。それほど風が吹いていないのに、生き物のように速く動いている。風向きと違う方向に進んでいるようにも見える。月明かりにくっきりと照らされる白い影がなんだかひどく美しく見えて、しばらく呆然としていた。


定時のチャイムの30分後、建屋の外に出た途端、取り巻く空気の湿度と温度がまるっきり夏の夕方だった。昨日はあれほど秋めいていたのに、忙しい。母の実家を思い出した。夏の夕方、硬い畳に寝そべっていた情景を思い出す。確か中学か高校の頃、学校帰りだった。あの頃、歴史ある祖父母の家には、実家以上の安心を感じていた。最後に行ったのはいつだろう。次はいつ行けるのだろう。祖父と祖母が生きているうちに、あと何度会えるだろう。いつまでも生きているようだった曽祖母も、いつしかこの世を去った。あれだけ元気だったのに、最後は病院のベッドの上だった。脳梗塞だったかな。意識はないようで、手を握りながら声をかけると強く握りしめられるのだった。戦争を生き延びた手にはいくつもの皺が刻まれていた。いつか学校の課題で、戦争について尋ねた時、普段とは打って変わって、静かに、そして凛々しく語る曽祖母の姿を見た。葬儀場を出る時、これが曽祖母の姿を見る最後の瞬間だと分かっていても、かける言葉がなくて、「またね、ばあちゃん」と皆で呟いた。そんなことを思い出した。

そういえば、一時期母の実家に住んでいたことがあったのだった。中学三年、実家をリフォームしていた時だ。あれだけ安心感があると言っていた母の実家だが、それまで一度も引っ越しをしたことのなかった自分には環境の変化がひどくストレスだったようで、それからしばらく餃子が食べられなくなった。自分は叔父の住まう二階に布団を敷いて寝ていたっけ。「自然と共生だ」などと言って、叔父は網戸のない窓を度々開放しておくので、よくカナブンが侵入していた。寝る時にもいつも、どこかからカナブンの臭気が漂う。カナブンの匂いに敏感になった。そういえばこの前実家に帰った時のトイレの芳香剤がカナブン臭かった。何を意図した匂いだったのだろう。


今日はオンラインで報告会を聞いていたら高校の同期が質問していたりと、色々と思うところが多かった。彼は立派な社会人をやっているだろうけど、果たして自分はとかすぐに考えるのは良くない。防衛大学校での生活を描く「あおざくら」という作品を読み始めたのも、自分の怠惰を浮き彫りにさせた。すぐに影響を受けるのは自分の良くないところでもあり良いところでもある、多分。果たして自分は何者なのだろう、ここはどこなのだろう、果たしてこんなものが現実なのだろうか、とよくわからなくなる。まあ現実だってことはひしひしと感じる。現実はいつだって、現実っぽい形を持って自分に迫ってくる。「現実っぽい形」とは有り体に言うと、どこまでも夢も希望もない形のことだ。少なくとも自分にとっての現実って、いつもそんな形だった。自分の入力する希望の5割くらい、概ね予想し得る結果を出力してくるのが現実ってやつだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?