『ヒックとドラゴン』3D

※『ビランジ』27号(2011年3月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 良作、話題作が出揃った2010年の中でも最高の一本がこれ、フルCGアニメ『ヒックとドラゴン』。
 この作品、前宣伝のまずさから出足は芳しくなかった。お笑いタレントを起用した、内容もキャラクターも理解しているとは言い難い宣伝方法は鑑賞意欲を削ぎ、「泣ける」の文句を押し出し過ぎた宣伝から、少年とドラゴンの出会いと別れを描いたよくある予定調和の感動ものと思われたのだった。ところが実際に観て驚いた。感動は感動でも押し付けがましいお涙頂戴のそれではなく、もっと普遍的で寓話性を帯びた力のある映画だった。上映期間の終盤にかけてネットを中心とした口コミで話題が広がり、一度は減った一日の上映回数や上映館の増加や期間延長がされたりし、海外の映画祭での受賞結果を受けての凱旋上映や時をおいてのアンコール上映が行われたりもした。異例の反響と言っていいと思う。
 そうした結果を生んだのはやはり作品自体の力。『ヒックとドラゴン』の監督はディズニーで長編『リロ&スティッチ』を手がけたディーン・デュボアとクリス・サンダースのコンビと言えば納得の向きもあろう。『リロ&スティッチ』は両親のいない家庭の少女と謎の生物スティッチとの友情を描きつつ、児童福祉のあり方を問い、子供にとって本当の幸せとは何かを探る意欲作だった。『ヒックとドラゴン』はその2人が再び共同監督を務め、脚本もウィル・デイヴィスを加えた3人で当たっている。クレシッダ・コーウェルのイギリス児童文学を原作としながらも、映画の内容はその前日譚に当たるため、ほとんど彼らのオリジナルと言っていい。
 原作の挿絵のラフなタッチを離れたキャラクター設計と、ツールに使ったCGが功を奏している。CGアニメの弱点は人間の描写だ。CGアニメの第一人者であるピクサー社でさえ生身の人間キャラクターを描くことは難しく、オモチャやモンスターや動物が主役の作品が多い。ところが『ヒックとドラゴン』は多種存在するドラゴン以外は人間たちの物語なのだ。そしてその描写は素晴らしい。髪や髭、瞳、光の弱い北欧で育ったことが感じとれる子供たちの皮膚や色素の薄い感じ、服の繊維や毛皮の質感に至るまでほぼ完璧だ。表情も紋切り型でなく豊かで動きも的確、プロポーションやディテール等、人物造形全体にどこか人形アニメのような雰囲気があるのも、人形アニメ好きとして個人的に嬉しい。またそうしたアプローチはキャラクターの表情や動きがマンガっぽくなり過ぎない一種の抑制ともなって作品に品を与えていると思う。そしてCGが最も効果を発揮しているのが世界の構築だ。バイキングの島全体の造形はもちろん、岩場を通り抜け梢を潜るといった描写が2Dでは不可能な立体感をもって、そこに確かな世界の存在を感じさせる。常に動き回るカメラワークは実写的で、これも3DCGアニメならではの効果だ。手持ちカメラ的な雰囲気を取り入れたシーンもあり、キャラクターの心情が直接伝わってくる効果を上げている。また、実写畑から招いたロジャー・ディーキンスのアドバイスによる光源の位置や種類、強弱を明確に意識した画面作りが更にリアルな世界の質感を深めている。夜や暗い室内でのシーンが多い本作だが、光源を意識した画面作りによって観客は実際にそこに立ち会っているかのような感覚を味わうことが出来るのだ。ジョン・パウエルの音楽はケルトミュージック的で好ましく、北欧の雰囲気を伝える。ケルトミュージックのどこか物悲しい旋律は日本人の感性に合うものがあるように思える。
 物語は主人公であるバイキングの少年ヒックのナレーションで始まるが、その前、ドリームワークスの社名が出る直前、トゥースの黒い影が右から左へと画面をよぎるのに注目。ナレーションと共にカメラが海上を進み、舞台であるバーク島に到着するやドラゴンの集団の襲撃とバイキングたちの応戦が始まる。目まぐるしさの中で観客は一気に作品世界へ引き込まれ、舞台と設定、バイキングとドラゴンの関係、登場人物の位置関係が端的に分かる見事な導入部だ。
 主人公ヒックは前宣伝のような弱虫などではなく、自尊心もユーモアも持った思春期の少年。しかし、ひ弱な体格と意欲が空回りしがちなことから村人に厄介者扱いされており、屈強なバイキングの長である父ストイックの悩みの種。この、一人息子のことを心から愛し案じているのだが力こそ正義の信念に凝り固まった父親と、父の期待に応える立派なバイキングになりたいと自分なりに頑張るヒックの、それ故に噛み合わない関係から来る葛藤も大きなモチーフの1つ。そしてもう1人重要なのが父の親友である鍛冶屋のゲップ。ドラゴンのために片手片足を失い、今は村の子供たちのドラゴン訓練の師匠をしている。このゲップの存在も伏線の1つになっているが、好人物でヒックの唯一の理解者。この人物配置がいい。父との間がぎくしゃくし、互いに歩み寄ろうとするものの上手く行かないヒックは思春期の少年の普遍的な姿だ。そこに誰か1人でも自分を理解してくれる人物がいたらどんなにか救われることだろう(ヒックの母は既に亡い)。
 戦いの最中、ヒックは自作の投擲機で伝説のドラゴン、ナイト・フューリーを撃ち落すことに成功する。翌日、谷間でフューリーを見つけたヒックはとどめを刺そうとするが殺せず、縄を切って逃がす。ドラゴンは敵と信じていたヒックの心に何かが生じ始めていた。やがてヒックは尾翼の片方を失って飛べないフューリーと心を通わすようになる。この間のヒックとドラゴンの立ち位置の変化がその関係を示して巧みだ。歯を自在に出し入れ出来ることからトゥース(原語版ではトゥースレス=歯無し)と名づけられたドラゴンのデザインが素晴らしい。原作ではイグアナ程度の大きさだったこのドラゴンをヒックが背に乗れるようにデザインしたのはサイモン・オットーとノグチ・タカオの両氏。ノグチ氏の日本人としての感性が加わっているためかトゥースはポケモン的な親しみ易さがあって日本では特にファンが多い。グッズ展開がされないのが不思議な程だ。ドラゴンとして爬虫類的なウロコを持つが、外見は哺乳類を意識してデザインされたそうで、しなやかな漆黒の体には温かみが感じられる。大きな耳(実は触角らしい)と丸く大きく状況に応じて瞳孔の形が変化する目は猫を思わせ、それらの変化によってヒックも観客もトゥースの感情を読み取ることが出来、それはトゥースへの愛着が増すことにつながる。ヒックが恐る恐る初めてトゥースの鼻先に触れるシーンは感動的だ。黒ヒョウや猫を参考にしたというしなやかな動きも素晴らしく、ネット上で黒猫ドラゴンと呼ばれた程に愛らしい。出し入れ可能な歯は猫の爪を思わせる。知能も高く言葉を解し悪戯っぽく、ヒックを真似て地面に絵らしきものを描いて見せたりもする。トゥースを理解するに連れ、ヒックと共に観客もトゥースが大好きになって行く演出が上手い。ヒックは持ち前の器用さでトゥースの尾翼の代用品と騎乗用の装具を作り飛行訓練を始める。
 トゥースと触れ合うことでヒックはドラゴンの習性を知って行き、その知識はドラゴン訓練の場で生かされ、彼は次第に仲間や村人からも一目おかれる存在になって行く。巧みな脚本だ。ヒックの秘密はそんな彼を怪しんだ訓練仲間で勇敢な少女アスティに知られるが、思いがけず彼らはトゥースの背に乗り空を飛ぶことになる。この飛翔シーンが実に素晴らしい。宮崎アニメの影響があることがスタッフ・インタビューで明らかになっているが本家をしのぐと言っても過言ではない。巨大な翼で海の波を切り高速飛行、急降下、スピン、雲の峰を越え夕焼け雲を抜けるとそこはオーロラの輝く夜の空。眼下に村の灯りが小さくまたたく。この爽快感と美しさ。雲や海の描写にCGの力が発揮され、3D(立体視)映像で見るとその素晴らしさは例えようもない。2D(非立体視)と3D(立体視)の両方の方式で公開された本作だが、3Dで見てこそこの作品の真価が分かる。3Dの技術は単に物体が立体的に見えたり画面から飛び出して見える見世物映画のためでなく、世界を作るためにこそあるということが実感される。『ヒックとドラゴン』ではスクリーンの中に確かな手触りと奥行きを持った世界が広がっているのだ。現時点でその効果はかの『アバター』をも超える最高の3D映像とも言われる。トゥースを理解し、その背で心地良さそうに両手を宙に差し伸べるアスティ。筆者はこの夕焼けの中を飛ぶ彼らの姿に東映長編『わんぱく王子の大蛇退治』の、ハヤコマに乗って飛ぶスサノオとクシナダのシーンを思い浮かべたりもした。
 彼らが飛行中にドラゴンの根城を発見したことから物語は大きく動き始める。その島はドラゴンと敵対するバイキングが長年探し求めていた場所だったのだ。ドラゴンが家畜を襲う理由、それは島に巣くう巨大な怪物に獲物を捧げるためであることを知ったヒックの心ははっきりと変わる。ドラゴンと戦うべきでないと。しかしドラゴン訓練の最終試験の最中、危機に陥ったヒックを助けようと我を忘れて村へ駆けつけたトゥースは捕えられ、島の存在も顕わになってしまう。本作は全編通して編集技術が見事なのだが、この、ヒックの危機とそれを悟ったトゥースが駆けつける緊迫のシーンに取分けそれが顕著だ。
 ドラゴン退治の出陣準備に沸く村の大俯瞰の壮観さ。無力さを噛み締めながらそれを見下ろすヒック。キャラクターの心情までも饒舌に伝えるレイアウトが見事だ。拘束したトゥースを乗せ、その様子に方向を探りながら進んで行くバイキング船団。彼らがドラゴンの扱いに長けている設定がここに生かされている。
 自分の心を見つめ直し、意を決して訓練所へ向かうヒック。助力を申し出るアスティと仲間たち。映画『ドラえもん』にも通じる感動シーンだ。そう言えば、彼らの設定はジャイアンをはじめ『ドラえもん』のそれに似ていなくもない。
 海上遥かなドラゴンの島ではバイキングとドラゴンの決戦が繰り広げられようとしていた。地の底から怒号が響き、島の主である巨大ドラゴンが岩壁を砕いて姿を現わす。引いたカメラでそれを捉えたショットの迫力。地を払い火焔で船を焼き尽くして暴れ狂う巨大ドラゴン。そのパノラミックな映像に満ちる怪獣映画的興奮。『キングコング』や『ゴジラ』や『バラン』の興奮が最新鋭のCGで甦る驚異。間一髪、訓練所のドラゴンに乗って駆けつけるヒックと仲間たち。荒れ狂う巨大ドラゴンを翻弄し、その隙にヒックは船上のトゥースの救助へ。しかし力及ばず諸共に海に沈んだ彼らを救ったのはヒックの父の逞しい腕だった。ヒックのしようとしていたことを理解した父は初めて息子を認め、お前を誇りに思うと告げる。父子の葛藤がいちどきに解けるカタルシス。
 トゥースに跨ったヒックは巨大ドラゴンとの最後の決戦へ。冒頭のドラゴンの襲撃シーンもそうだが、目まぐるしい空中戦と火球の連続発射によるダイナミズムとスペクタクルは日本のアクションアニメのお家芸を自家薬籠中のものにしたかのような見事さで目を奪う。雲の上へ巨大ドラゴンを誘い出し決戦を挑むヒック。激しい戦いに雲が光に染まり一瞬浮かぶ姿が激闘を伝える。アップとロングの切り替えの巧みさ。トゥース得意の超高速飛行と急反転しての火球の一撃が決まったと見えた瞬間、最後の力を振り絞った巨大ドラゴンの尻尾の一撃が彼らを襲う。紅蓮の炎の中へ落ちて行くヒック。渾身の力で追うトゥース。
 やがて村のベッドで目覚めたヒックが目にしたものは平然と部屋にいるトゥースと、そして…。静かにベッドから降りたヒックの左足は義足に変わっていた。トゥースに支えられて外へ出たヒックは村の皆に迎えられ、ドラゴンと共棲する村へと変貌した様を目の当たりにして驚く。ヒックの信念と勇気がバイキングの世界と歴史を変えたのだ。トゥースの背に乗りアスティと共に空を飛ぶヒック。戦いで燃え尽きたトゥースの片尾翼の代わりにゲップが作ってくれたバイキングのマーク入りの赤い尾翼が鮮やかだ。ヒックもトゥースも共にバイキングの村の一員として認められたのだ。ドラゴンとバイキングとの新たな歴史が始まる。ヒックが片足を失う展開は映画オリジナルのもの。スタッフの証言に、戦いの規模の大きさと戦いには犠牲が付きものであることを伝えるためと聞くが、これによってヒックとトゥースが真に対等な存在となる、大胆かつ効果的な変更と評価したい。子供向け映画の常識を破る展開ではあるが、年少の観客もショックを受けつつもその意味を受け止めていたようだ。
 見終わっての爽快感。前宣伝通り、何度も泣けるけれど、それは哀れを誘われてのそれではなく、心からの感動の涙だ。
 映像も脚本も演出も全てが良く出来た映画と思う。少年の成長を描いた正統で普遍的なジュヴナイルであり、ボーイ・ミーツ・ガール映画である。そして、現代を映す寓話でもある。男女の別なく子供の頃から軍事訓練に参加するドラゴン訓練所の設定は戦争が身近にある社会の反映であり、巨大ドラゴンの出現シーンには9.11の影響も見受けられ、巨悪を働く黒幕は地下に潜み、恐怖をもって支配するという図式は現実の中東情勢を想起させる。戦いよりも共存を訴えるヒックの姿には民族紛争を抱えた現代の急務と希望が重ねられ、しかし対話の余地すら無い敵に対しては総力戦で挑まねばならない現実が見え、結果として片足を失うヒックの姿には戦いの代償を躊躇わず見せるスタッフの覚悟が伺われる。義足のヒックには現実の傷痍兵の姿が重ねられていると共に、身障者への前向きで力強いメッセージ足り得ていると思う。
 日本語吹替え版は巧みな出来だった。普段は原語版主義な筆者も納得の出来栄え。誰一人として違和感がないどころかむしろ好もしい。3D版を見るには字幕が煩わしいことがあるのだが、本作の場合そんな心配もなく見られる。俳優女優の知名度に頼った配役が目立つ日本のアニメ界は考えを改めて欲しいとも思う。
 『ヒックとドラゴン』は批評家・観客共の好評を得て、続編の製作も決まったと聞く。期待と不安とがあるが、今は待とうと思う。この感動に再会出来ることを信じて。

※初出:『ビランジ』27号(2011年3月発行、発行者:竹内オサム)
※『ヒックとドラゴン』(日本公開2010年8月)
※文中にヒックの母は既に亡いと書いたが、この「1」の時点ではそう言われていた。

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