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ミュージカル『INTO THE WOODS』論  ーノイズを内包するミュージカル

はじめに


2022年2月、熊林弘高氏演出の『INTO THE WOODS』を梅田芸術劇場で3回観た。歌とは何だろうか、と考えさせられた。

『INTO THE WOODS』という公演はミュージカルとして成立していなかったようにみえた。なぜなら、この作品の基本要素である音楽を、複数の演者が十分に——あるいはまったく——歌いこなせていなかったからだ。(中略)
筆者は結論として、『INTO THE WOODS』は公演として評価する水準に達していないと判断した。楽譜から音楽的に逸脱する意義が上演から見えてこない以上、カレーライスをカレー抜きで注文して出てきた料理を「カレーライス」ともはや呼べないように、この公演は「普通のミュージカル」の逸脱ではなく、不出来である。

出演者の歌唱が一定の水準に達していない作品はミュージカルとして成立しない。
というこの評に接して、そうかもしれないと一瞬思う。
でも、本当に、そうだろうか。

そもそもミュージカルのうけとめ方を考えてみたい。
出演者たちは歌だけを届けているのだろうか。
観客は彼らの歌だけを聴いているのだろうか。
そうではないだろう。
観客がミュージカルで受け取るものは、歌だけではない。
現に、耳の聞こえにくい観客が、タブレットで字幕を読みながらミュージカルを楽しんでいる。そのことをこの方のブログで知った。初めて知ったというよりも、わたし自身がミュージカルを観るときに、耳だけではなく目でも楽しんでいることに気付かせてもらったという方が正確である。

出演者が歌う時や台詞を発する時の表情やまなざし。身体から発せられる怒りや喜びの情動。走る、止まる、倒れる、跳ねる、たちすくむ、身を寄せ合う、抱きしめる、はねのける、といった動き。出演者同士が視線をかわす瞬間に生まれるときめき。この人間はなぜその歌をうたうのか、なぜそんな顔をするのか。
舞台に上がった全てのものを観客は受け取り、役の心を感じ作品を理解して楽しんでいるのである。

拙劣な歌によって共感が妨げられて物語に入り込めなくなるということは確かにある。だからといって、ミュージカルとして成立していないというのは違うだろう。たとえば、前述の耳の聞こえにくい観客に対して「あなたはこの素晴らしい歌をちゃんと聞けてないからこのミュージカルはわからない」というのか。そうではないだろう。
歌が聞こえなくてもミュージカルを楽しめる。
歌以外の要素でもミュージカル作品は成立する。
そのことをこの評者は知らないのだろうと思う。
耳だけで聞いていることに、気づいていないこと。
目だけで見ていることを、きちんと意識していること。
本当に作品を大切にうけとめているといえるのはどちらの方なのか。
歌だけにアンテナを張った受け止め方で十分な論といえるのだろうか。

評者として、相手の最も弱い所を撃つのはたやすい。
ソンドハイム氏の楽譜を盾にこれこそがミュージカルという自分の基準を軸にして、あてはまらないものや逸脱したもの・異質なものを排除するのは、物語の主人公たちと似た正義のありかたを感じる。その自覚と痛みが感じられないから、わたしはこの評が気に入らない。
さらにいうと、「カレーライスをカレー抜きで注文して出てきた料理を「カレーライス」ともはや呼べないように」という稚拙な比喩も気に入らない。少なくともカレーライスとして提供されていたという無意味な議論をするつもりはないが、一言書かずにはいられない。そもそも、この一文は修飾句が誤っている。この文章では評者が「カレー抜きで注文をした」という意味になる。そんな注文をする客がいるのか。肝心な比喩でこのありさまである。

奥行の深いこの作品に対して一稿で論じきることはできないだろう。気に入らないといっても、この評が指摘したことはこの作品の問題点および特徴をよくとらえていると思う。しかし歌唱の拙劣さのみをとりあげて、その表現の意図を十分に汲み取れていないこの作品評は、評としては一定の水準に達していないとわたしは判断する。ソンドハイム氏の楽譜をなぞるだけの浅い批判で満足していること、自分の偏った見方に無自覚でいるこの評をわたしは強く批判する。

「INTO THE WOODS」は、出演者のひとり毬谷友子氏いわく、10日間大阪のホテルの部屋にひきこもって冷たい弁当を黙食して個人的な会話もままならぬまま出演者一同心血を注いで演じられた舞台である。
この舞台を見て、本当に、何も心に響かなかったのか。
わたしは感じた。
出演者が命がけで戦ったのだから、もしこの舞台に何らかの評価をしようというのなら、自分をさらして命がけで向き合う覚悟で論じなければいけないとわたしは思う。
だからわたしは書く。自分の頭で考えて自分の判断で。時間はかかっても。


と、情緒的に宣言してやめるつもりだったのだが、それではずるいので続けて書く。

論点は、このミュージカルを特徴づける2つの要素である言葉と歌について。特に観客に不快感を与え、「ミュージカルとして成立させていない」と感じさせたノイズの意味を論じたいと思う。

①「歌が下手」という評は前回もあった

そもそも『INTO THE WOODS』は、今回の上演に限らず、宮本亜門氏による2004年の初演と2006年の再演時にも「歌が下手」と評されていたことをこのブログで知った。

おそらくミュージカル慣れしてる人やあるいはオペラから間違って来ちゃった人はキャストのほとんど「歌が下手」と思うだろうし、そう感想している人を実際知っている。ところがだ、若手二人の評価は棚上げしても、明らかに歌えないように見える人というのは高畑淳子だけなのだ。しかしそう見えるのも、他のキャストがわざとそうしているように彼女もまた地の声で歌っているからなのではないかと思う。歌い手のような歌い方をする人が少ないから、「歌が下手」という印象を受けるのではないだろうか。みんなセリフを喋るように歌を歌うからだ。

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Into the Woods考察

2006年時のキャストには神田沙也加さんはじめ、歌のうまいとされる出演者が参加している。歌唱力は問題ないはずである。『INTO THE WOODS』を日本で上演すると、「歌が下手」に聞こえるという感想はつきものなのである。「歌い手のような歌い方をする人が少ないから、「歌が下手」という印象を受けるのではないだろうか。みんなセリフを喋るように歌を歌うからだ」という指摘は重要である。おそらく今回もそうなのだろう。この作品は、歌を歌として歌わない、耳に心地よく響く歌を観客に与えないのである。それは、意図されたものである。

②日本語特有の「ノイズ(雑音)」が観客の心をゆさぶる

英語の言葉で創られた演劇作品を日本語で上演するにあたっては、明治以来から続く違和感と葛藤と相克の歴史がある。なぜミュージカルでは標準語がデフォルトなのか。「ぼくはきみを心から愛してるんだー」のような日常で用いない表現や文体をミュージカル的な言語として定着してきたのは最近のことである。
この論では「ノイズ(雑音)」を、観客にとって耳慣れない音・違和感を与える音・時に不快感をもたらす音としてとらえる。『INTO THE WOODS』には観客に違和感を感じさせる「ノイズ(雑音)」のような言葉が突然出てくる。魔女が発する「牛逃げてはりますえ」などの関西弁は(関西圏では別であるが)どことなく不快な揶揄を含んだニュアンスで劇場に響く。シンデレラが姫としてふるまう時の「たーつーのじゃー」。赤ずきんのおばあちゃんが狼をあやめる時の「悶え苦しんでおぞましく死ぬがいいこの悪魔」、いずれも芝居がかった歌舞伎の節回しである。
これらの語群は、日本語の伝統的な言葉である。それをあえて「ノイズ(雑音)」として挿入した意味をよく考える必要がある。ミュージカル文体の型に対する皮肉なのかもしれないが、もっと深い意味がある気がする。

能はオペラであり、人形浄瑠璃や歌舞伎はミュージカルと言ってもいい。伝統的な言葉は日本語の地層を成しているにもかかわらず、現代人にとっては耳慣れない外国語のようにきこえる。ミュージカルよりも先に存在している言葉なのに、関西弁や歌舞伎の言葉の方が違和感を感じさせる作用を強く与えるのだ。
魔女の関西弁は、かつての都たる京都で使われていた言葉であるが、今は標準語に対して異質な言葉として受けとめられることが多い。ちなみに黒衣のようなパフォーマーに操られる魔女の身体はどこかしら人形振りで上方で生まれた人形浄瑠璃という文化の基層を彷彿とさせる。
シンデレラが「立つのじゃー」と歌舞伎調で言うと観客は笑うのだ。芝居がかったノイズのような言葉が彼女の言葉の異様さ・不自然さの表現になっている。ふつうの言葉とふつうではない言葉、現代日本人が感じる違和感がたくみに生かされて、ノイズのような言葉を言うシンデレラの姫キャラ演技への違和感が増幅されているのだ。

と同時に、その芝居がかった台詞や節回しはそれはそれで美しいのである。おばあちゃんが狼を殺すときの「悶え苦しんでおぞましく死ぬがいいこの悪魔」という台詞にあわせて歌舞伎の見得を切った毬谷友子さんに、梅田芸術劇場の大千穐楽では盛んに笑いが起き、拍手が贈られていた。それは日本語の地層にあるノイズのような言葉が観客に受け入れられた瞬間でもあった。

英語で創られた作品を日本語に翻訳する際に、熊林弘高氏は、日本語の基層を掘り下げる方向へと向かったのだろう。突如として現れる関西弁や日本の伝統芸能にある芝居がかった台詞や節回しは、観客に違和感を与えることで、人物の造型を強調している。それだけではなく、違和感を与えるノイズのような言葉たちは、過去と現在をつなぐドアの役目を果たしている。観客の多くが日本語話者であることを前提として、突然提示されるノイズのような関西弁と伝統芸能の節回しは、観客の言語感覚をゆさぶる。日本語が長い歴史の中で育んできた豊かな地層や伝統芸能の蓄積とリンクするのだ。
西洋のミュージカルを、日本語の伝統芸能に根ざした言葉で演じることで、日本語の日本語による日本語のミュージカルとして構築しようとしている。西洋の演劇と日本の演劇を言語レベルで融合させようとする試みを感じるのである。

③欲望の発露としての歌もまたノイズ(雑音)

歌とは不思議である。 なぜひとは歌うのか?
言葉を歌にする瞬間、不思議な力が降りてきていると思う。
歌とは集団の祈り、神に願いを捧げる儀式で生まれたという。
日常の言葉ではない非日常の言葉で願いを捧げ、実現を祈る。
記紀歌謡や初期万葉に残されている歌のように、同じ節回しを繰り返し、共に歌うことで集団的なカタルシスを得る。
その歌はもともと声をそろえていたものかどうかはわからない。
鼓の先生が「音を合わせない」と教えてくれたことが思い出される。西洋の音階とは異なり、日本の歌に絶対的な音階はない。それぞれ自分のキーで歌う、相対的な音階である。個々がめいめいに心をあわせ調子を合わせることで、音楽としてのまとまりや美しさが生まれるのだ。神楽舞や祝詞に感じる不安定な抑揚もまた、西洋の音楽には感じられない独自のものである。

この作品で大事なのは赤ちゃんの泣き声なのではないかと思う。
パン屋の赤ちゃんは、パン屋が抱くと泣く。
赤ちゃんの泣き声は何かの願いを訴える人生初の「歌」だといえる。しかし、その泣き声は美しさも何もなく、ただ不快にさせられる。パン屋にとっては耳障りな「ノイズ(雑音)」でしかない。ノイズをやめさせようとあやしたり、ミルクを与えたりする。つまり、ひとは生まれた時からノイズを出して自分の願いをかなえて生きている。ひとの願う歌声は、他人が聴いて心地よいものではなく、ノイズにすぎないのだ。

そもそも欲望とは、願いとは、赤ちゃんの泣き声と同様、完成された綺麗な歌でみごとに歌われるものではないのだろう。完成されればされるほど作為的になり、不自然になるのだと王子たちの見事なハーモニーを聞いて気づかされた。
たとえば、妻子がありながらその場限りの刹那的な色欲を求めて朗々と歌う王子たちの歌は、美しいけれど彼らの欺瞞の醜さを露呈している。パン屋のおかみが不安定な音程で時に声が裏返りながら歌う歌には、王子とのかりそめの逢瀬とパン屋との間で心揺れる女性の性の迷いと不安がまざまざとにじみ、妻を亡くして子どもを捨てて逃げたパン屋が泣きながらつぶやく歌には責任を負えず覚悟もなく自立しきれない男のたどたどしさが感じられた。

下手にきこえる歌は、その不安定さそのものが100%まじりけなしの真実として舞台の上にさらけだされて、それがそのまま登場人物の未熟さの造型に直結していた。いやもっと上手く歌えるはずである。でも不安定。この不安定にこそ、美化させるまいという強い意志を感じた。

赤ちゃんが泣くように、登場人物は自分の地声のまま語り、語りが少しずつ歌になり、歌い始める。美しくもなく、耳障りで、不快な歌も多い。それでも歌、それこそが人間の歌なのである。人間が願いを込めて歌を歌う、歌が生まれる瞬間を見させられている気がしたのだ。
人間は綺麗な音を出すだけじゃない。雑音を発して生きている。人間の歌声を美化せず、雑音としてとりこむことで成り立つミュージカルとして上演されているのだと感じる。

④構造(書きかけ)

舞台は、物語の現場である。語り手である謎の男は実はパン屋の父であり、罪の重さに逃げ出していたが、物語に戻っている。物語のインサイドとアウトサイドは関係性の比喩で、「完全には死んでいない」という台詞は息子の物語に参加しているという意味である。物語で死んでドアの向こうに消えて行ったように見える人々も、実は舞台の外ではその人の物語は続いている。ひとびとは他人の物語に出たり入ったりする。ポスターの額縁はそのことを表している。
同様に、舞台と観客席もつながっているのだ。出演者がよくもここまで自分をさらけだしてくれた、フェイクがあたりまえの現代でこのようなリアルに触れられたことにも深い感銘をうけていた。原始的な人間の欲望、願いの発露が醜くも稚拙にも歌になって露呈する瞬間を体感させられている感覚があった。だからこの作品は劇場で体感することに意味があるのだろう。惜しいことに配信やBlu-ray化がなされないのは、劇場で体感することに意味があるからだ。熊林弘高氏演出の『INTO THE WOODS』は、ノイズをとりこみ、日本語の古語の巧みな使い方で言語意識をゆさぶり、各人の願いから歌が生成される過程を観客にリアルに体感させるミュージカルとして成立していると思う。

⑤「No One is Alone」「Children Will Listen」の美しさ

終盤に飛ぶ。
「No One is Alone」ひとりじゃないと嗚咽しながらたどたどしく歌うジャックの歌に、心震えた。
さらに、魔女がふたたび現れて歌う「Children will listen」の透明感ある歌声と、魔女の歌にあわせて登場人物たちの歌声の沁みるようなハーモニーに涙が出た。そう、彼らは歌えるのだ。
この歌は、彼ら自身の欲望から発せられた歌ではなく、親を失って生き残った4人の子どもたちがお互いのために歌ったり、観客という他者のために心ひとつに合わせて、祈りを捧げる歌である。だからこんなにも美しく、心にしみるのだ。自分のためではなく、誰かのために祈る歌こそ美しいものはないのだ。最後の最後に美しい歌を捧げてくれたことに気づいて涙が出た。

熊林弘高氏演出の『INTO THE WOODS』は、観客の言語深層にある日本語の記憶を揺り動かし、人間たちの不揃いさと稚拙さを露呈させながら、それでも慈しみ、ひとりだけどひとりじゃないから自分で考えて未知なる森へ進めと繰り返し歌うミュージカル作品である。

この論も不十分である。
魔女の歌や死の意味についてはまた考える。
今日考えられるキャパシティを超えた。

わたしはこの作品がとても好きだ。 
出逢えて感謝している。

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