「偉い」って、褒め言葉なのか?なんだか不快になる訳をとことん掘り下げる
最近、「偉いね」について考えることが増えた。それが口癖の人と、たまたま友人になったからだ。
それにしても「偉いね」とは奥が深い。褒められているようで、な〜んか不快なのである。それを紐解いてみたら答えが出たような気がしたので、整理することにした。
まずは、友人Aさんに言われて不快だった言葉を思い浮かべる。
・「本読むんだね。偉いね〜。」
・「日焼け止め毎日塗ってるの?偉〜い!」
・「今日ランニングしたの?偉すぎる。」
う〜ん・・。
「本読むんだね。偉いね〜。」を例にとる。
これをAさんに言われた時の違和感は、「ああ〜Aさんは読書の良さを何もわかってないんですね」とも言えるし、「私は好きで娯楽として読んでるのに、そのあたりをAさんは何もわかってないんですね」とも言える。
このことから、Aさんの「偉い」の背景にある考えが2つ浮かんだ。
(1) 発話者Aにとって「読書=ストレス」なのに、あなたは読書するなんて!
Aにとっては、読書なんて楽しくない"のに"。
→Aが読書の楽しさを否定している
→言われた側は、自分の趣味や娯楽に対する"嘲笑感"
→不快
(2) 相手にとって「読書=ストレス」なはずなのに、読書するなんて!
言われた側(=私)は、読書なんて苦痛なはず"なのに"。
→Aは私のことを誤解している
→私のことを何もわかってない、という"がっかり感"
→不快
(1)も(2)も、「〜なのに」がきっとポイントだ。「読書=下げるべき対象」という前提があり、その主語が、言う側なのか(1)、相手なのか(2)の違いだ。
しかし、時々、(1)も(2)も当てはまらなさそうな場合があると「え、この状況でなぜ『偉い』が出た?」と困惑してしまう。つまり、何に対して「なのに」が掛かっているのか分からないのだ。
それで第三の「なのに」が浮かばれる。
(3) あなた(=原則として低レベル)なはずなのに、読書できたなんて!
(1)も(2)もしっくりこない場合は、もうこれで片付いてしまう。つまりAが「読書」という行為ではなく「相手」を下げて見ているとき、この(3)は成立してしまうのだ。ここでの不快感は、言うまでもなく「見下され感」である。
・・・
つまり、「偉い」が使えるときは
・(1)自分にとってそれがストレスだと宣言できる状況
・(2)相手にとってそれがストレスだと確信している状況
・(3)相手にとってそれは困難だろう、と下に見ても許される状況
のどれかのみではないか。
だから、
相手がストレスなくやっていることに対して「偉い」を使ってしまうと、褒めたかったはずの「偉い」はたちまち頓珍漢な声掛けになってしまう。
(1)の意味に取られたら「趣味を馬鹿にされている」と言う嘲笑感を与えることになるし、(2)の意味に取られたら「私のこと何にも分かってないんだな」とガッカリさせることになるし、(3)の意味に取られたら、「見下されているな」と失礼な印象を与えることになるからだ。
う〜ん。考えれば考えるほど、「偉い」って、使わない方がいい気がしてきたんだけれど、どうなんだろうか。せっかく相手を称賛したい気持ちがあるなら、「偉い」以外の言葉でそれを表した方がいい気がしている。
もし「偉い」しか使えない状況や、「偉い」がベストである状況の例がある方がいればぜひ教えていただきたい。私の出した「偉い」についての考えが、今まさに「偉い」について悶々としている方の役に立ったら嬉しい。
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