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キリン

家でキリンを飼い始めた。

最初は集合住宅で動物を飼うことへの不安もあったが、

今まで自分がペット可の物件で暮らしていた事を改めて知り、一念発起したという訳だ。

人は意外と、自分の住んでいる所のことを知らないものだ。

だからこれまで僕は敷地に植えてあるカイボクトウの木がそう言う名前だと言うことは今まで気にしたことも無かったし、

その葉っぱを食べたウマ科の動物が酩酊状態になるということも、ついぞ最近まで知らなかった。

僕の家に来たキリン(デベソと名付けた)は酒乱の気があって、

その日の夜には酔っぱらって家の中のモノというモノを長い首で凪ぎ払い、

僕は長い後ろ足で蹴飛ばされて15針も縫った。

下の階の住人が騒音を抗議しにやって来たが、意外とその人が好みのタイプだったので、僕が脇腹から出血している様を見られて恥ずかしかったのを覚えてる。

初めて飼った動物に手を焼くと言うのも、恐らく全てのオーナーが通る最初の難関だとは思うが、

病院から半日で退院して帰ったときに荒れ果てた自分の部屋を見たとき、

これからを考えると少し気持ちがブルーになった。

しかし、長い首を僕にもたげて甘えるデベソを見ると、やはり飼い始めた以上は生涯を持ってこの大動物の生命に責任を持とうと決意を新たにするのであった。

ある日、デベソが長い首を器用に使って、上の階のベランダのプチトマトをペロリと食べてしまったと、大騒ぎになった。

上の階に住んでいるのは独り暮らしのおばあさんで、これも僕は初めて知ったのだけど、菓子折を持って謝罪に行ったときに、妙に話が合い、仲良くなった。

以来、おばあさんは僕が不在の折りに、ベランダ越しに見えるデベソの頭を撫でたり、話しかけたりしてくれてるらしい。

また、デベソの事でひとつ大きな発見があったのだが、どうやら2本のツノは生え変わるらしい。

一度テレビに映るサバンナの映像に興奮した時に、ポッキリと折ってしまった事があり、

心配で獣医に見てもらったのだが、これはこう言うものですよ、と言うことだった。

折れたツノは良く磨いて、僕の実印に加工させてもらった。

これのおかげで、出掛けたときもいつでもデベソが側に居るような気がして心強かった。

胸に忍ばせておくだけで、嫌味な上司の小言にも、

(ぼくはキリンを飼っているんだぞ)

と、気後れしない態度で悠然とした気持ちで居ることができた。

思うに、人はこのコンクリート・ジャングル・オン・ザ・ヒートアイランドにおいても、

まるでサバンナに居るかの様な気持ちで生きることによって、

動物として強く生きて居られるのかと言うことが決まるのかも知れない。

デベソからは、そういう、大事なことを教わった気がする。

しかし、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。

デベソの具合が日に日に悪くなってきたのだ。

最初の医者とは違う獣医さんに見せたところ、なんとツノが取れるのはとても良くない事だと言うことが分かった。

あまりの理不尽に憤ったが、新しい獣医から、「先生の顔を立てさせて頂くと、ほとんどの獣医はキリンを診たことがないので仕方ないかも知れません」と言われ、やり場のない怒りを何とか胸に納めた。

日に日に容態は悪化してくる。上の階のおばあさんは、トマトスープを持ってデベソのお見舞いに来てくれた。

やはり、キリンをこのコンクリート・ジャングル・オン・ザ・ヒートアイランドで飼うのは無理があったのだろうか。

思い詰めて同僚に話したとき「問題はそこじゃないと思うよ」と言われ、僕は泣く泣くデベソをサファリパークに移す事に決めた。

結果、デベソは一命をとりとめ、少しずつ回復の兆しを見せ始めたとのことだ。

写真の中のデベソは、広々とした野原を縦横無尽に駆け回っている。

これで、よかったのかも知れない。

デベソが来る前とはすっかり変わり果ててしまった僕の部屋で、引っ越しの段ボールを閉じながら僕は回想した。

壁紙には、デベソが前歯でガジガジとやった跡がくっきりと残っている。

在りし日のデベソの姿を感じながら物思いに耽っていると、部屋のインターホンが鳴ったので、僕は引っ越しの見積もり業者を中に通した。

業者の人は言う。「随分と大荷物ですね」と。

そこにはここで処分する品の他に、新たに発注したケージがこれでもかと言う程の存在感で置かれていた。

「ええ、新居で新しく動物を飼おうと思って」僕は答えた。

「おっ、良いですね。何を飼うんですか?」

「ゾウを」

「え?」

僕は笑顔で答えた。

「キリンさんが好きです。でもゾウさんの方がもっと好きです」

松本引越しセンター

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