不気味の谷

前回、「映画「アイロボット」を観て(改訂版)」という記事を書いたが、なんだか改訂した後もモヤモヤが残っていた。確かに、ロボットと人間は違うことを認識して共存すればいい、と締めた。

しかし、そんなことが本当に可能だろうか?我々人間は、進化し続けるロボットに付いていけるだろうか。

想像してみてほしい。仕事や人間関係で嫌なことがあったとする。なんだか真っ直ぐ家に帰るのは憂鬱だ。そんな時に公園のベンチで横になりぼんやりしているところへ、そっと人間型ロボットがやって来て声をかける。「大丈夫ですか?」これは、完全にホラーである。受け入れできない薄気味悪さしかない。「あっちへ行け」、「誰だお前?」それ以外にどんな言葉があるだろう。

こうした感覚は私以外の人も必ず抱くはずだ。でも、言葉がわからなかった。この感覚をどう表現すればいいのか?

疑問に思った私は、Chat GPTに聞いてみた。すると既にこの感覚を言語化している人を発見した。こうした感覚は、「不気味の谷」と呼ばれ、ロボット工学の森政弘が今から53年前の1970年に提唱していたのだ。少し説明を加えると、ロボットやCGキャラクターが人間に非常に近い外見や行動を持つと、最初は親近感が増えるものの、ある一線を超えると不快感や気持ち悪さを感じるというものだ。

なるほど。不快感や気持ち悪さか。しかし、この理論に当てはめると、そもそも「映画アイロボット」の人間的な表情から考えると、企画段階から失格だろう。しかし制作側はこの理論を逆手に取って、怖いもの見たさの心理をくすぐったのだろう。

不気味の谷という感覚が人間にある限り、ある一定のラインを設けて、人間型ロボットと人間は区別される必要がある。それは共存する上で壁となるものだ。その壁は、その人がどんな環境で育ったか、どんな教育を受けてきたか、どんな文化や宗教を経験してきたか、そうした様々な環境によって、異なるものだろう。

壁は、ベルリンの壁のように壊したから良いというものではないし、付け焼き刃の津波防波堤のように建てれば良いというものでもない。

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