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「紺碧の波濤」Oboe Soloの凄み


はじめに

この記事は私の初稿になる。だから、多少の娯楽性のある親しみやすいコンテンツが良いと思った。そこで、「音楽」、なかでも「吹奏楽」に焦点をあて、2011年全日本吹奏楽コンクール金賞受賞、千葉県立幕張総合高等学校「紺碧の波濤」(長生淳)を取り上げる。
(ことわりがき:基本的に、原稿は校正無しで勢いをもって書き上げているため、諸々の不自由はご容赦いただきたい。)

採用する視点

 筆者は、若輩者であるがオーボエ奏者である。「世界一難しい木管楽器」としてギネスブックに認定されていることで知られるオーボエ(Oboe)は、演奏者の人口が他の楽器と比較すると著しく少ない。筆者も吹奏楽をしていた頃は、そのほとんどの時間を一人でオーボエを演奏していた。舞台最前列をフルート群と自分が占める形となっていたから、ひとりであることがいっそう目立つ。いよいよ後継者が要るからと最上学年になってようやく後輩を迎えても、自分を入れて二人になるに過ぎなかった。
 オーボエ吹きの人数の少なさは、多様な要因があると思っている。例えば、その奏法の難しさ(ミリ単位での楽器やリードのずれが音の鳴りを悪くしたり、リードの湿り気が音の深さや艶を左右したり、、と枚挙に暇がないが、楽器とリードのどちらの状態も数分単位で常に変化し続けるため、根気よく調整し続け神経質に観察しなければならない難しさがある)と金銭的な問題(楽器、リード、管理費・修理費が非常に高額である)、それから吹奏楽的よりもオーケストラ的サウンド感にあると思われる。こういう多様でありそして一筋縄では行かない要因が絡み合ってオーボエ奏者の人口は少ない。それゆえ、オーボエ吹きによる音楽の評価は、自然、数があまり無い。(とはいえ、「オーボエの代名詞といえばソロ」と言える程度にはオーボエは独奏楽器であり、オーボエには代替の効かない存在意義があるから、奏者の少なさは重要性の低さを示す指標としては機能するものではない。)そこで、本記事では、オーボエ奏者による音楽評価というあまり見かけることがない試みをしようと思う。

演奏の印象

2011年全日本吹奏楽コンクール金賞受賞、千葉県立幕張総合高等学校「紺碧の波濤」(長生淳)において素晴らしい音を歌い上げたオーボエ奏者の方は、将来は音楽の道に行くのだろうと期待させる技量を見せた。実際にそのような意思があったかあるいはそのように選択したのかは明らかでないが、自然とそう思わせるに値する卓越した演奏だった。また、筆者では専門外で知見が不足するため言及を控えるが、ファゴット奏者の方の演奏も格別であった。ダブルリード群の音のコントロール感、奏法の基礎力、空間的な響きの把握力、立体的な響きの探究心、音色の伸びやかさとエレガンス、音の艶、歌うようなフレージングは、楽器というより歌に近いものであった。大変素晴らしい奏者に支えられた本演奏のうち、オーボエ奏者とファゴット奏者には目を引くものがり、特筆して素晴らしかったと筆者は思う。

Oboe Soloの印象

それでは、2011年全日本吹奏楽コンクール金賞受賞、千葉県立幕張総合高等学校「紺碧の波濤」(長生淳)のオーボエの何が凄かったのか。曲の後半にある、長いソロパートに着目する。波が水飛沫を上げながら高く上がって荒れ狂い、渦を巻いて迫り来るかのような重厚なサウンドが展開し、それがようやく収束して沈黙が広がる時に、ハープの音階の頂点の音を契機にオーボエソロがついてくる。肝心のオーボエソロの感想としては、2つの情景を思わせるものであった。一つは、嵐の海と並行に続いている荒んだ空に、穏やかな一筋の光が差し込む情景である。二つ目には、悲劇の真っ只中にいる冒険者が荒れた海の岸壁に立ち、絶望的な景色を見渡してから、覚悟を決めて悟りを語るような情景である。ソロ前までの、あらゆる物質的な充満とエネルギーの無秩序な解放が、ソロの予兆を受けてすっと落ち着き、最終的にはソロを通じ、何かとてもシンプルな原理を中心にエネルギーが収束したような雰囲気である。

Oboe Soloの技術

初音のA

技術的な側面にコメントするのであれば、ソロのワンフレーズにおいて膨大な工夫とサウンドの探究が感じられる。まず、ソロパート冒頭のA(ラ)の音。オーボエの高音域において、この音は不安定になりやすい音である。Aは案外、リードの間の空間を満たすように息を入れる感覚だけでは音が安定しない。そこでさらにリードの奥にある楽器本体の筒に届くように、リードのもう一段階先にも太い息を入れる必要がある。すると、Aは息が楽器に届くまでは音程が低くなり、楽器に届けば音程が正しくなる(あるいは高くなる)。こういうAの特徴を鑑みると、そのソロパートのように初音でAを吹く場合、初めから音形とピッチを安定させることは至難の技だ。しかし、このソロ演奏は聴衆がAを吹く難儀を忘れてしまうほどで、音形にもピッチにも揺らぎがなく、理想的な音を一発で狙い定めて安定させているのが分かる。そして、数拍のストレートから浅く細かい繊細なビブラートが一層小刻みに深まっていくことでAのロングトーンを美しく魅せている。オーボエのビブラートについては、息を吹き込む時に抵抗感として感じる、リードから跳ね返される息の圧力が強いため、オーボエは浅い繊細なビブラートを習得するのが難しい。しかし、この演奏ではとても精度の高いビブラートを演奏している。しかも、音程が上に動くビブラートであるから、キラキラとした音の艶感を出す効果(日光を受けた水面のよう。)を発生させている。また、クレシェンドを伴うAの伸びやかなビブラートは、空間的な音の波紋の広がりも美しく、左右均等に響き広がっているのがわかる。ロングトーンの途中、低音群が入ることで、神秘的でどこか現実味がないOboeのAのサウンドを、先ほどまで展開されていた現実世界へと落とし込み、足場を生み出すことに成功している作曲も見事である。

AからFへの跳躍

その先、H(シ)の音で多少の時間的なタメを作ることで、数音あとに戻るAの音色とビブラートの美しさをよく聞かせている。これほど短いAの音にもビブラートを纏わせることに成功していることも驚きであるが、そのビブラートはAを足場として呼吸を安定させるために機能しており、この直後のF(ファ)へのなめらかな跳躍に貢献している。この跳躍は非常に難易度が高く、このソロ演奏は到底高校吹奏楽部員の演奏とは思えないものであった。Fの音は、奏法の抵抗感は軽減されるが、上管の上を塞ぐ運指により息が音に起こされ(転化され)にくくなるから、息の方向がAの時よりも上の角度を目指す必要があり、息の形を細く形成し、息のスピードも早める必要がある。それをAという不安定な音から実に滑らかに跳躍して音を切り替えて見せている。演奏ではFの前のA、H、C(ド)ではなく、難易度の高いFにこそ音量の頂点を持っていっているが、大変難しい本ソロパートの最高音Fでその選択をするその度胸とその度胸を支える技量を物語っている。

F以降

Fで息を張って吹き入れ、E(ミ)に降りた時には、音の降下によって生じる(息の跳ね返りの)抵抗力が減少し、これによって発生する息の張りの緩みを用いてEでビブラートをしている。表現としては、Fで高まった音の緊張をEで緩和(放出)させるビブラートとして評価できる。音と奏法に対する相当な掌握感がなければ、この手のフレージングは実現しない。FからEへの移動の後のDでは、あえてDを前の2音からフレーズを若干切り分け、音量を抑えて優しく空間に置いており、Dの音の処置もよく管理されている。Dの後のCの処理や、Gの重心かけ、Gの後の短音Aのためのビブラートも、技が細かいうえよく計算されている。このAで初めてブレスをしていが、ここまで息が続く肺活量は驚きである。しかもブレス前のAは、処理ではなくビブラートで音を切っているのが面白い。(太い息を必要とするAでビブラートを使わず処理することは大きなリスクをとることになる。ビブラートは賢明な選択に思える。)ブレス後の初音のEも正確に当てて、Hでは動き出す他楽器の旋律に溶け込んで消えていくようなデクレッシェンドをする徹底ぶりである。全国大会という緊張を免れない舞台で呼吸が浅くなる中、これほど長いブレスと綿密な技をこなすした本ソロ演奏は、実に技量を見せつけられる演奏であった。





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