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本ブログの趣旨:ブログでないブログ?

ブログは執筆であり、創作活動の一端を成す。しかし、私には自分の時間・気力・体力のリソースを他の活動から割いてブログに注ぐという計算も気概もないから、私のブログは未完の創作物ということになろう。しかしこれに反して、私の認識の上では、「創作活動」というのは敷居が高い。なにせ、創作活動とは、顔の見えない人間を含む「世界に働きかけること」であるからである。ブログでも何でも、とにかく「論文や本」とは別の形で、未完の創作物を公開しても良いものかという葛藤が、ブログを始めることに強い抵抗感を抱かせ続けていたわけだ。

そんななか、ブログの効果に気付いたからブログを始めた。ブログの環境要因的な効果である。それは、ブログが一定の生産量を日常的に分散させて生産できることである。論文執筆のように、ある期間を定めて集中的に大量生産をする活動は、ある程度の精神的な負荷と遠回りを嫌う合理性にさらされることを免れない。こういう状況では、元手となる情報を頼りに叩き上げができるが(この意味では、創作活動は最終局面で必ずこういった短期集中型の大量生産を経なければならないのだろうが。)、どうしても脳内に出てくれる発想、出てくれない発想とがある。偉人の逸話で、彼ら・彼女らが研究や執筆を進めていた机上から離れて、たとえば入浴あるいは散歩の時の分散思考の最中にアイディアを思いついた、という回想をよく耳にするのは、こういうことかもしれない。そこで、筆者は、ブログという手段は、生産活動を日常に分散することによって思考の種の発芽を促進し、来たる「叩き上げの日」を助けてくれると考えた。筆者がブログを始めたのはそういう経緯からである。ピアニストになるには、本命の国際コンクールの前に、発表会や国内コンクールを通じて場数を踏んでいかねばならない。こういう連続的な公的生産に追い込まれることによって効果的に・効率的に技術と知識が研鑽されていくものだ。ブログをそういう風に運用していくのも面白いと思った。

したがって、このブログは、筆者の創作活動の結果としての「創作物の展示」というより、「ある日・ある時の筆者の頭の中の保存」をするという目的のものである。時間軸の一点上にある「その時」の頭の中を、感覚やイメージごと、勢いよく書き留めてしまいたいと思う(だから校正もしない)。それゆえ本ブログは創作活動の結果としての「創作物」よりも「発話」に近いかもしれず、そのような感覚が筆者の中にあるものだがら、自身のプロフィール欄に「逍遥」(古代ギリシャの自然の中を歩きながら談義する営み)と記したわけだ。本ブログを、「いつかの自分の思考の種子を冷凍保存した備忘録」として自分の論文執筆の際に活かせれば良いし、読んでくださる方には筆者との束の間の気軽な対話でリフレッシュしてもらえたらと思う。

それにしても、完璧主義であると言われ、未完成品が手元に溢れていたというレオナルド・ダ・ヴィンチのダ・ヴィンチノートは面白い(筆者は現物を見たことがあるが、鳥肌がたったものだ)。ショパンが焼き捨てるようにと遺言を遺した幻想即興曲も右に同じ。創作者が、表(発表する作品)と裏(その作品に至るまでの足跡)を使い分けているのは明らかだが、こういう裏舞台に隠されている情報源にどれほどのうまみがあるか(表は裏を苗床にして生まれるから、それは自然なことだな)。そして、創作物が非常に容易に公開されるこの時代はどこか「表・裏は関係なく、出したもの勝ち」のような風潮があり、私にも人知れずにバックヤードを拵え続けることに多少の焦燥感がある。とはいっても、私がブログを書くのは、そういった気持ち以上に、ブログを書く機会が生産性を半ば強制的に高めてくれるという効用に期待するからなのだが。いずれにせよ、裏舞台と表舞台の間とも言えるこの場「NOTE」をお借りして、飽きるまでは公開執筆という試みを続けてみたいと思う。

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