気づきの木曜日

今日はとても大切なことに気づかされた。自分がいかにエゴイストであり、自分さえ良ければそれでいい的な心があるかがわかった。それで友人を失った。それは俺が招いた事であり至極当然の事と言えば当然だ。

人に感謝して生きるという事、小さなことにも感謝を伝える。何かしてもらったらありがとうを言う。これまで心がけてきた事だ。全部表面的であり、結局やってもらったことに対する感謝を伝えている自分に自分が気持ちよくなるためにやったことなのかもしれない。そんなものは見透かされる。

理性的に生きることに関しても、理性的に生きている自分に酔っているだけだ。結局自分が気持ちよくなるためにやっているだけで周りのことを本当の意味で考えていたかと言えば考えていない。結局意識高い系の人がやってることと同じことをやった。

支えてくれている人のために無償で何かを与えることができるかと言われたら、与えたいと思う自分がいるのに、どこかで損をしてしまうことが嫌な自分がいる。無償で何かを与える人に憧れを抱きつつも、自分の中の損したくない自分に支配されている。

結局他者に与えたいという気持ちなんぞ微塵もなく、ただ自分が気持ちよくなるためにやっているだけなのだ。だから友達を失うのだ。ただ自己批判したところで変わらなければ意味がない。変わらないのならば死ねば良い。それくらいの覚悟でやらなければこれから先どんなに経済的に満たされたとしても心は満たされないだろう。というよりそもそも相手目線で考えられない人間に幸せなぞ訪れんが。

結局こうして書いていることも自己満足でしかないのかもしれない。ノートを書き始めた目的は日々の小さな優しさや感謝を書き記すためのことであったのに、いつからか自己満足な書き殴りに変わっていた。結局何も変わらない。そら見限られるわということだ。ノートを書くこと自体が目的化していたのかもしれない。

心の部分を変える他ないだろう。根本的な部分が変わらなければ、結局のところ同じことの繰り返しだ。利己的な心を少しずつで良いので変えていく他ないだろう。少しでも利他的になるようにしていかなければならないと思う。

これからは支えてくれる人のために少しでも与えられるように、心を利他的にしていこう。少しずつで良い。日々どんな小さなことでも良い。こんな利他的な行為をしたというのを記録にとるのも良いだろう。そういうことをやって試行錯誤はしながらもやっていく他ないだろう。間違ってもノートを書くことが目的化してはならない。ただ結局はそれも自己満足で自分が気持ちよくなるためにやっては行けない。あくまでも記録として事実を淡々と記すことが大事だ。難しいかもしれないが、少しずつ慣れていこう。また利他的な行為をすること自体が目的化してはならない。それは結局ノルマと変わり、自己満足のためにやってることへと変貌する。利他的な行為をしなかった日があっても良い。ただ意識してそういう場面にあったときにいつでも利他的になれるように日々の意識付けはしていかなければならないだろう。心の部分を変えなければ、結局何も変わらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?