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安部公房ー安部公房論から読み解く、安部公房、その生涯ー

安部公房ー安部公房論から読み解く、安部公房、その生涯ー

安部公房文学を思考する時、まず敷衍しなければならないのは、安部公房が幼少年期を満州で過ごした、ということである。この原風景が安部公房に影響を与えたことは間違いないし、安部公房論を読み解くなかで、度々、満州の影が落ちているのを発見するのだ。日本文学史として考えれば、異端とも理解出来るし、それは台湾の埴谷雄高とて同じことだ。しかし、両者ともに、日本文学史のなかで、非常に重要な役割を担って居る。外から見た日本、という客観性が、両者の強みかもしれない。安部公房論では、自ずと、その砂漠的満州の出自の事を取り上げたが、それは必要な行為だったと思っている。

安部公房は、また、東京大学医学部卒業である。医者にならないことを条件に卒業したようだが、小説の随所に、理系的発想、医学的発想が見受けられるのは、その為だろう。文系上がりの小説家が多いのに対し、安部公房はやはりここでも異端ではある。ただ、その発想を、飽くまでも小説の中に内包してしまっていることが、やはり小説家としての心構えを、考えさせられざるを得ない。いくら、医学部を出ているとはいえ、それらを小説に収斂させていく文章は、日本文学史における小説において、新しい感じを受ける。その点では、同じく、東京大学医学部卒業の、森鴎外との対比も面白かったかもしれないが、安部公房論では、論じなかった。余りに時代の隔たりがあるからである。このように、安部公房論では、理系的発想、医学的発想も鑑みて、考察を行った箇所がある。

安部公房は、二十七歳で、芥川賞を受賞する。『壁』という作品である。本、安部公房論では、『壁』以前と、『壁』以降で、考察を試みた。特に、『壁』以前には、随分力を入れたつもりである。『壁』以前は、総じて、観念的であり、埴谷雄高的であった。形而上の文学であった。これらに触れて、『壁』以降を読むと、また違った感じを受けたので、『壁』以前を読み解いたことの行為は重要なものだったと、今でも考えている。また、この安部公房論を長く書くに置いて、安部公房全集を買ったことも、そこで、安部公房の素の姿が、余りに常識的だったことも知れて、やはり小説では、意図的に変わった作風にしていたのだ、という事が気付けて、良かったと思うし、それらの詳細は、始めの方の安部公房論で述べてある。

後半は、作品論に徹して、書いてきたつもりだが、どれだけ深く書けたかは、定かではない。ただ、今年映画化される、『箱男』については、重要な箇所を抜粋出来たとは思ってはいる。映画『箱男』は、今年の大きな楽しみである。また、『飢餓同盟』については、長く論じたが、これは、安部公房が集団が苦手だったということから、非常に論じ易かった。同盟という集団と、個人という安部公房の対比など、そぅいう事を述べた箇所もあったと思う。『砂の女』で、海外の文学賞を取り、世界的な小説家になった安部公房が、ノーベル文学賞まで、あと少しだったことも悔やまれる。『カンガルー・ノート』も論じた、最後の小説として。しかし、忘れてはならないのは、初期短編集『題未定』を論じたのも忘れてはならない。非常に有益な考察時間だったと、記憶している。

1993年に死を迎えた、安部公房は、上記した内容を見て、非常に波乱万丈の人生を送ったと思われる。しかし、それくらいの人生でないと、これだけの小説は書けなかっただろう。或る意味、時代に選ばれた小説家、だと言えると思う。安部公房ー安部公房論から読み解く、安部公房、その生涯ー、として述べて来たが、本当の最後の小説とされる、『飛ぶ男』も、最高に面白い。今回、この様に安部公房論が30編(次回で30編)を書けたのも、一つには、安部公房の生誕100年が、今年だったこと、大量に新潮から、新しい表紙の安部公房の文庫本が販売されたことなど、様々あったからこそのことである。今、安部公房文学が、再び必要とされ、甦ったことに、大きな敬意を払いたいと思う。

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