見出し画像

安部公房ー随筆集、笑う月(笑う月)に関してー

安部公房ー随筆集、笑う月(笑う月)に関してー

安部公房の随筆集、『笑う月』には、17編の作品が、収められている。その中から、『笑う月』、『発想の種子』、『鞄』の3つを、取り上げて、考察しようと思う。随筆集『笑う月』は、『箱男』の二年後に、発表されている。或る意味、もうほとんど、安部公房文学の形式が成り立った頃の、作品であって、この随筆集からは、余裕すら感じる、という訳である。そしてまた、舞台裏の安部公房が顔を出し、小説を書く時のヒントの様なものを述べているから、尚更、余裕の余裕という、意識状態で書かれた感じを受ける。この17編、短い文章で、とても読み易い。自分は、安部公房文学に入ったのは、『カンガルー・ノート』からだが、その次くらいに読んだと記憶している、『笑う月』である。

まずは、タイトルにもなっている、『笑う月』から引用。

ぼくが経験した限りでは、どんなたのしい夢でも、たのしい現実には遠く及ばない反面、悪夢のほうは、寧ろ現実の不安や恐怖を上まわる場合が多いような気がする。

『笑う月』/安部公房

この悪夢に当たるのが、安部公房の場合の一つとして、笑う月に追いかけられる夢だそうだ。確かに、悪夢というものは、実際だと夢の中で体感しているから、現実の不安や恐怖を上まわる、恐ろしい夢も、それを体感すると言った点において、恐怖そのものである。安部公房のこういった体験というものは、逆に言えば、そういう夢を見るということで。小説を書く時の、ネタの一つや二つ、いや、それ以上の収穫が有るに違いない。安部公房は、体質的にも、小説家になって、適切だった、ということになる。ほとんど夢らしい夢を見ないという人や、少し眠っただけで、体力が回復する人も、世の中にはいるらしいから、安部公房は、こういった夢からも、収穫を得ている。というよりも、この『笑う月』という随筆自体が、もう、夢から派生した作品と成り得ているのだから、その事実が安部公房の夢の収穫を、明証していることになる。

続いて、『笑う月』の最終箇所を引用。

夢は意識されない補助エンジンなのかもしれない。すくなくとも意識下で書きつづっている創作ノートなのだろう。ただし夢というやつは、白昼の光にさらされたとたん、見るみる色あせ、変質しはじめる。もし有効に利用するつもりなら、新鮮なうちに料理しておくべきだ。

『笑う月』/安部公房

このように、夢が創作ノートだと、最後に独白される。やはり、そういうことであるなら、安部公房にとって、夢は重要なのである。しかも、創作ノートだと言われたら、この随筆『笑う月』を読まない訳がない。まさに、安部公房文学の舞台裏を探しているのだから、最適な随筆集なのである。夢の有効利用、こう言った発言に、安部公房の余裕というものが実に痛切に感じられる。つまり、安部公房研究において、この随筆集は必須のものなのだ。「新鮮なうちに料理」された作品は、我々の眼前に、提供される。本当に、安部公房ファンにとっては、夢の利用は、ありがたい話なのだ。

この様に、安部公房の随筆集、『笑う月』、について述べて来たが、ここでもまた、安部公房文学の方法論が明かされた。夢の利用、というやつである。こう言う風に、夢が利用されているなら、我々が安部公房の小説などを読む時に、どの小説のどの箇所に、夢の利用があるかどうか、という問題が浮上する。しかし、いちいち、そんな事を証拠立てて言い当てることは出来まい。だから、夢の小説家、安部公房、くらいに半ば思って居たら、もっと自由に、小説の読解が進められるであろう。結句、方法論としての、夢の利用というものがあったと、安部公房ー随筆集、笑う月(笑う月)に関してー、において、引用発見出来た、ということだ。研究には、実に有難い発見であった。これにて、安部公房ー随筆集、笑う月(笑う月)に関してー、において、を終えようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?