回遊魚

人が話している言葉を聞いて初めて自分も安心して会話ができる。誰かが使っていた言葉なら信用に値するので、猿真似のように、あたかも自分の言葉のように話せる。この前読んだ本の言い回しを人に言ったり書いたりして、褒められて安心する。行動するには、誰かの承認が無いと不安だ。

友達が泣いている。まずい、こんな状況のときになんて声をかければいいんだろう。みんなが使っていた言葉マニュアルには載ってない。本にもなかった。大丈夫だよ、なんて不用意だ。わかるよ、なんて軽薄だ。分厚くなったマニュアルなんて何の役にも立たないものなのか。私には話せる言葉がなかった。

本当は、誰かの言葉をなぞって自分の言葉を紡ぐとき、心の片隅で、ずるいなぁ、と思う。身体の血肉から取り出したものではないのに、それで褒められたり理解されるのが寂しい。自分でさえそうなのだから、使い古された言い回しを辛い境遇のときに掛けられる相手は、定型文に収めやがって、と内心呪うのではないか。いや、他者はもっと寛容なのかも知れないけど、心の狭い私はきっと思う。私の気持ちをテンプレになんか落とし込むなよ、と傷つきながら傲慢になる。

自分の辞書を厚くしたい。でもまだ怖い。怖いからひとりごとを書いてみる。ここでなら、好き勝手書いてもまだ大丈夫な気がする。テンプレではない言葉の海を、回遊魚のように周遊する。そんな夢を、スマートフォンの中で見るつもりだ。

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