井戸端会議について考えてみよう

お昼時。シャッター街唯一のベンチに、おしゃべりなおばあさんが3匹座っていた。

ほんの一瞬だけだが、井戸端会議の群れだった。この令和の時代にもこの「井戸端会議」の文化は残っていた。
冬のこの寒い時期、人肌が恋しくなる。恋しくなるとともに人と話したくなる欲望がわいてくるのであろう。

何を話していたかは覚えていない。記憶にも残らないそんなどうでもいいことをずっと話しているようだった。その光景を見た瞬間にいろいろ考えた。

例えば、「どんなつながりがあってここに集まっているのだろうか。」

この人たちはきっとこのベンチに座って話す前々から別のとこで井戸端会議をしていたのだろうと思う。どこで知り合ったのかは知らない。会うとしたら多分○○教室とか。

でも自分が老人になってもどっかの教室に行ってさらに学びを乞うことはしないなァ。今の年齢だから思うかもしれないけど「もう義務教育終わったからいいじゃん」とか思っちゃう。

そう考えたらあの3人すごいな。何歳でもどっかの教室で何かを学び取るその姿勢っていいなって思った。まだまだあの人たちは成長するかも。

例えば、「まずどうやってここに集まることを決めたのだろうか。」

3人のうちの誰かが(あそこ空いてるわ~~~)みたいなことを言って座ったのかもしれないし、もしくはその人たちのLINEグルがあってそれでベンチの写真をグループチャットに送って「今日ここに○○時に集まらない?」とか言ってたのかな。

そう思ったのは、あの人たち手荷物何もなしでそこに座ってたんだよ。住宅地もそこから一番近いところって約1km以上離れてるからホントにしゃべる目的で座ったのかな。それだったらグループで電話したらいいのにとか考えちゃう。

グループの名前なんだろ。「井戸端」とかなのかな。でも井戸端会議の議員はみんな自分が井戸端会議の一員であることの自覚がないからきっと「○○教室のメンバー」とかにしてるのかも。

例えば、「3人の役割」

わかる人はわかると思うんだけど、3人で話すってなると、確実にあるのが「一人余る」っていうことなんだよ。3人のうち2人同士が喋るのに夢中になっちゃって「なんか余った~」って一人ボッチになっちゃうの。

でもそれがなかった。しかも何がすごいって一人喋ってたら二人が「そうそう~」ってなったり三人同時に「確かに!」とか言ってるわけ。おまいら台本ある?これモニタリング?どっきりか?「井戸端会議が阿佐ヶ谷姉妹みたいだったらツッコむ説」でもやってる?

そのくらいあの人たちの会話におけるシンフォニーがすごかった。きっと波長が合うんだろうな。そこまで波長がある人間と人生の終盤に会えるなんてめっちゃ幸せだと思う。そうゆう人にはいつ会ってもいい。

例えば、「会話内容」

覚えてないけど、あの人たちはきっとホントに他愛もない会話してたんだと思う。ブラックジョークとかを吐くそんなやばい老人方には見えなかった。

「昼飯食べて眠いわ~」
「私たちもうすぐたくさん寝れるじゃないの~」
「ですわね。わはははははははははは」

こんな会話は絶対にしてなさそうだった。話変わるけど老人って何かと死にまつわるジョークを吐き続けてるイメージがある。偏見かな。

そんな老人は明日も明後日もどこかで話しているのだろうか。
そんな進歩のない、ただの無駄話を。
でも、そんな日々がきっとちょうどいい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?