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痛くなければ覚えませぬ【23年9月17日の駄文】

 漫画や小説で印象に残った言葉、第2弾。
 今回は原作・南條範夫氏、作画・山口貴由氏の作品『シグルイ』に出てきた言葉を取り上げる。

 虎眼流道場の師範代・藤木源之助が弟子に剣の稽古をつけているシーン。
 藤木は「鍔迫つばぜり」という、つばぜり合いの格好から相手を押し倒し、喉元に剣を押し付ける技を繰り出していた。
 呼吸もままならない弟子は、「参った」も言わせてもらえない。
 そこに「それまで!」と、師範の牛股権左衛門が割って入る。牛股は藤木の振る舞いに対し、汗をひと粒たらしながら苦言を呈す。
「もう少しこう何というか、手心というか……」
 しかし藤木は強い意志をはらんだ目で、こう返すのだった。
「牛股師範……痛くなければ覚えませぬ」

 痛い目を見ないと、人は何も覚えられない。
 この言葉はさまざまな場面で普遍的に通じるものがあると思う。
 藤木は弟子を不必要に痛めつけていたわけではないのだ。そうすることが成長への正しい道だと思ったからそうしていた。
 物理的な痛みというよりは「危機感」を植え付けたかったのだろう。
 力量の差を見せつけ、今のままではダメなんだと思わせるのもそうだし、周囲に同門の仲間たちが居並ぶ中、いわば弟子は恥をかいた格好になったわけだが、それもあえてそうしたのだ。
 牛股は組み伏せられた弟子の身を心配していたのだろうが、藤木もまた弟子を違う意味で心配していたわけだ。彼の未来のことを考えたら、今こうするのが最善だと。

 今の若者……なんてことを言ってしまうと自分も年を取ってしまったものだと思うが、あえて言わせてもらう。
 今の若者は性急に、しかも安全に答えを求めすぎていると思う。
 よく寿司職人や天ぷら職人の修業で、店主が新入りに対し非常に厳しい態度で接し、それがテレビなんかで取り上げられると、一斉に「やり方が古い」と非難を浴びることがある。
 マニュアルなんかを作って覚えさせれば1年足らずで店が出せるだろう、みたいに言う人もいる。

 しかし、あながちこの行為は間違っていないと思う。
 手順だけ覚えたところで、実際にはいろいろと勝手が違っていて上手に事を進められないなんてことはよくあるものだ。
 それに、文字どおり必死に師匠の技を目に焼き付けていたならともかく、緩慢な態度で修業にあたる人もいるだろう。
 緩慢なままなんとなくやり方だけ覚えてしまって、じゃあそろそろ店を出そうかとなり、客を入れてから中途半端な技術をさらけ出し、案の定不評を買い、「こいつどこで修業してきたんだ、ああ、あの店か」となるリスクだってある。
 きちんと弟子のことを考えられている師匠は、修業を終えてからの弟子の姿も想像に入れたうえで教えているのだ。それは弟子の人生に対しての責任でもあり、自分が背負っている看板に対する責任でもある。

 マニュアルで覚えれば、師匠なり先輩なりからああだこうだ言われることもないし、そりゃ楽だろう。
 しかし「他人から指摘されることの痛み」は人生において何より重要だと思う。
 君は未熟なんだ、そのやり方ではダメだ、こんなことを言われてしまったら気分が悪くなる。誰だってそうだ。
 だが唇をかみ、それをただじっと受け入れる勇気も必要だ。
 そうすれば危機感を覚えるだろう。現状から変えなければいけないことがあるのに気付くだろう。
 危機感というのは悪いものではない。この先の人生をよりよく生きるための警告だと思うべきだ。いわば成長のきっかけを与えられているのだから、それを自分の糧としなければならない。
 時には涙することだってあるかもしれないが、それすらも次へのステップと考えるべきだ。別に今かいた恥なんて、そのあと成功してしまえば笑い話にしかならないのだから。
 「痛くなければ覚えませぬ」、この言葉はそれを教えてくれている気がする。

 ……まあ、いらん指摘とかもあるので取り扱いは注意だ。
 物理的に顔を突き合わせたうえで、ちゃんと真剣に言ってくれているのなら受け入れることも必要だろうな。その場合は糧となる可能性が高いし。
 顔の見えないネットとかでの誹謗中傷はゴミばっかりだろうから分別は慎重に。


漫画や小説で印象に残った言葉、第1弾のリンクを以下に置いておきます。
取り上げたのは漫画『グラゼニ』の「デカイことにしない」です。


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