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ノマドを目指して

             1991年 病院・地域学会での口演原稿

これ、能天気に無批判な部分、狭いパースペクティブ、用語・思索の不徹底など気になるところ多々あって、何十年ぶりかに手元についてから公表を躊躇っていた原稿なのですが、私の思考の軌跡、30歳のころには自信を持っていたマニフェストです。ちょっと思い切ります。

一度は実在したユートピアとしての治療共同体へのオマージュとしても...

   

                                                                           木下智夫

じつは、送られてきたプログラムを見て一瞬ぎょっとしました。「患者」という文字を見て。自分で書いたんですが、「病」者と書いたほうがよかったかな、でも、自分たちの意識は「患者」の段階のような気がするし、「病」者ってのはかなり意識的な言葉で、まだ私たちはそこまでいろいろな問題にたいして意識的になれてはいないしな、とかいろいろ考えましたが、いちばん大きな問題はいまだ自分の中に残っている「患者」という呼称への抵抗でした。それは「消費者」という言葉を使おうとか、「精神病」者と名乗ろうとかいうレベルの問題ではなくて、もっと素朴な、精神病と呼ばれることへの抵抗でした。確かに患者だけれど、ただの患者ではないぞ、みたいなおごりがありました。

そんな人間がここに代表として出てくるような、ノマドはまだ始まったばかりの団体です。団体としての意見集約もできていません。ですから、これから述べるのは、ノマドの一員である私の個人的意見です。

ノマドはご存知の通り遊牧の民を現すラテン語から来ています。ドゥルーズ/ガタリを持ち出すまでもなく、「狂気」というものを肯定的にとらえたい、私たちは本質的に自由なんだ、という思いをこめて名付けました。

最初に呼びかけを行ったのは、実は4年前になります。呼びかけた当人—これは私のことですが—が鬱にはまってしまって2年以上のブランクがありました。ひとりが倒れたら続かないようなものを組織と呼べるのかどうか、実際、既成の社会の何ものにもとらわれたくないという意識から、会計以外は何の役職も置いていません。ただ月一回集まって好きなことをしゃべりあい、それをニュースとして発行していく、それだけのグループなのです。ただそれだけのことを維持していくことが、じつに困難なのです。

私たちの仲間の大半は駒ケ根病院と飯田病院を中心とした(長野県)南信地区の患者です。駒ケ根というところは全開放で(現在はまったく様相を異にする)精神病院につきまとう暗いイメージが何もない。来ていただければわかりますが、光に満ちています。これは比喩でもなんでもない。本当に何度でも行きたくなるし、行くだけで「病気」が良くなったような気がするときもある。そうして「豊か」です。時間的、精神的に。多様な人間が多様な生活をしていて、駒ケ根では時間がゆっくりと充実して流れる。もちろん本人が鬱のときは違いますが。スタッフのなかではいろいろあるようですが、利用者に向けられた駒ケ根病院の顔はうちにも外にも明るい。こんな奇跡のような病院があっていいのかと思うほどです。南信地区にはそうした開放病棟が多い。各種自主的なものも含めたグループ活動も多様で、外来者に開かれたサークルもあります。要するに「開放」されてるだけでなく「解放」されているのです。そんななかで患者による患者のための会と声高らかに呼びかけても新鮮味がないというのが実情です。そうしてご想像の通り「飼い馴らされた」病者が多くなってしまっています。病院に何もかもそろっているのに、何をいまさら好き好んで苦労するんだ、というわけ。良心的なケアと巧妙な管理とは紙一重、と、痛感する今日この頃です。

しかし、医療が良心的なるがゆえの困難というのは、私たちの地域に特殊なことなのでしょうか。敵が「見えない」というのは逆につらいものがあります。医療の「解放化」が進むにつれ、患者の問題意識が取り残されていく現状に、私は決して満足するものではありません。「病」者集団などから送られてくるさまざまな情報を前にして、私はややもすると一人で突っ走っていくことにもなりかねません。「仲間とともに歩む」ことがこれほどしんどくて、じれったいものだとは思いませんでした。

実際に患者同士でなければわからないことはたくさんあるわけで、駒ケ根では、病院のスタッフが妙な「ジャマ」をしないでその場を保証してくれています。なおかつそれを患者が主体となって「外」で維持していく必要性を仲間に伝えるのは容易ではありません。たとえば、患者が看護婦に名前で呼びかけるなんてことは私たちにとってあたりまえのことであって、彼女たちも私たちに敬語を使います。病院外でも親しい仲間のように声を掛け合うのはざらで、マインド・イン・信州(この「組織体」についてはいつか語れる日が来るだろう)などではだれが患者でだれがスタッフなのかわからないありさまです。それだけに、駒ケ根病院を離れた患者会を、自分たちで作ることの意義を見出すことが難しくなってしまう。このあたり、おわかりいただけるでしょうか。

もちろん私たちの地域にも閉鎖的な病院も、名ばかりの「開放病棟」もあります。そして、北と南の格差も述べておかなければなりません。長野県を北へ行けば行くほど、閉鎖的な病院が多くなり、じっさい「寒く」なってきます。

しかし、駒ケ根でケアを受けている人たちには、良くも悪くも個人主義がはびこっていて、ひとによっては医療による患者相互の横のつながりの分断などというひともいるのだろうけれども、「ひとのことはひとのこと、自分たちには関係ない」といった感じで、「ありのまま」の現状に満足してしまって、病院との接点がないのが現状です。大体私に言わせれば、マイペース、まとまりがつかないところに病者の素晴らしさがあると思っているので、これはたちが悪いです。それを組織しようとすること自体が大きな矛盾なのです。そして、多様な人間たちをただ「病者」という側面からだけ切り取ることなどできはしません。しかし、あえて私はそれをしなければいけません。

患者会を作り、維持していくことの難しさは、ここで私などが述べるべきことではないでしょう。多くの先輩方の意見を聞きながらじっくり育てていくつもりです。

「病」者はきまじめです。融通がきかないし、既成の道徳をこれほど信奉している人たちを私はいままで知らなかった。だからこそ「狂う」のだろうし、これは私たちの地域に特殊なことではないと思う。そうして私たちの仲間は「社会復帰」という言葉の嘘をまだ見抜けないでいる。「リハビリテーション」の原義は「失地回復:誇りの回復」です。働こうと働くまいと、そんなことに関係なくこの言葉は存在するはずです。「リハビリテーション」を「社会復帰」と訳したのは誰だか知りませんが、「日本的常識」—私は「奴隷の道徳」と呼んでいますが—をこれほど体現した言葉はないと思います。私たちの仲間内で「これだけのことができればどこでも使ってもらえる」というセリフが誉め言葉になっていることを私は大いに悲しみます。かといって私は「反社会復帰」という立場をとるものではありません。これを言っていろいろな先輩方に顰蹙を買うのですが、アンチといったとき、往々にして相手と同じ土俵に乗りがちです。私は現在の「奴隷制社会」など相手にするのも汚らわしいと思っていますので、アンチをとなえることで自分を貶めることはしたくありません。「働けない」のでなく「働かない」という立場をとることは多くの先輩方と一緒ですが、私はそれを「非社会復帰」と呼んでいます。言葉にこだわるわけではなく、自分が一番誇りをもって生きられる道、と考えたとき、必ずしもいつも「闘争」している必要はないのではないかと思います。「怒り」は忘れてはいけない。しかし、人間らしく、といったときの胸のぬくもりも忘れてはならないと思うのです。「正しい」だけでなく「楽しい」生き方をしたい、それが私の人生に対する基本的な態度です。胸ときめく瞬間を少しでも長く過ごしたい、そう思います。結果的に戦わざるを得ないものと戦うことに臆しはしないし、いま、ここが闘争の場であることは認識しています。でも、生きることは喜びです。

こういった言動も、私の現状認識の甘さから出ているのかもしれません。今年も何人かの仲間が自らの命を絶ちました。

私たちが「病」と「認め」られたときに、まず失うものは人間としての誇りといきる喜びです。奪われる、と言っても言い過ぎではない。自分の言動、行動のすべてを「病気」とされたものの悔しさは味わってみたものでなければ分からない。私が忘れてはならない怒りと申し上げたとき、まず念頭に浮かぶのはそれです。そうして、それこそが今の私の誇りの源泉でもあるのです。この「病んだ」社会において、心病まずにいられなかった自分、それほどに一途であった自分に対して、生きながら地獄を見てきたものとして、よくやったと自分でほめてあげたいのです。

私たちは絶対的な孤独というものを知っています。それは病の極限において、だれもが見るものだと思います。そういうものたちが、もう一度他との交流を始める意義というのは計り知れないものがあると思います。つながりあうことで病、自己の相対化ができ、苦しみも和らぎます。もしかしたら、そこにのみこの病んだ社会を癒す雛型が見いだせるのではないか、そう信じて私はノマドの活動を続けています。

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