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1「あなたはうつ病だから、ドナーにはなれません」

 うつ病を患って、もう6年になる。重症かつ、治療抵抗性うつ病というやつである。その間ろくに仕事もしていない。

 初めてうつ病になってわかったことだが、この病気には底がない。どこまでも落ちていくし、良くなる兆しも一向に見えない。インターネットで調べると、20年30年寛解していない人もゴロゴロいる。さもありなんといったところだ。

 精神疾患持ちにありがちなことだが、私の家庭環境はあまり良くない。両親や親類とはほぼ絶縁しており、頼れるのは夫だけだ。結婚して10年になる一回り年上の夫は、とても優しい。薬の調整がうまくいかず一時期躁状態に転じた私が貯金もないくせに100万円ほど散財してしまったときも、大事な時計を質に入れてまで家計をやりくりしてくれた。毎日食べていくのに必死で、時計は今もまだ戻ってきていない。

 かつて、私は良い妻だったように思う。看護師ということでそこそこお給料も貰っていたし、家事もちゃんとしていたし、年に3~4回は共通の趣味のスキューバダイビングをするために夫婦で旅行に出かけていた。それがうつ病になってからは、仕事も家事もできず、薬の副作用で20kgも太り、旅行どころか外に出ることすら怖い私の代わりに夫は毎日買い物をしてきて食事を食べさせてくれた。仕事で疲れているにも関わらずだ。

 私が覚えている一番最初の記憶は、母が父にDVを受けている記憶だ。その頃私は3歳だった。母を守らなければと思った。必要ならば父を殺そうと本気で思っていた。何故なら父のDVは私のせいだったからだ。今ならわかる。父はうまく父親になりきれなかった、かわいそうな人だった。結局両親は離婚し、私と当時乳飲み子だった妹を連れて母は家を出た。父の記憶がない妹は明るく健やかに育ち、それとは対照的に私は家の奥で本ばかり読んでいる内向的な子どもに育った。母は母方の祖父母の家に私と妹を預け、毎日夜遅くまで働いていた。その一方で、母は彼氏と会ってもいたようだ。夜中まで母を待つのは、さみしく心細かった。一度だけ母の彼氏の家に遊びに連れられて行ったことがある。子ども向けの遊具などなく、ひどく退屈だった。それからしばらくして母は流産した。母が血まみれで車に乗せられ、運ばれていく光景はひどくショッキングだった。それが原因だったかはわからない。こぶ付きの女を嫌がったのかもしれない。母は彼氏と別れた。祖母は小さな駄菓子屋を営んでいて、祖父は大工だった。いじめられていた私は仮病で学校を休みがちで、よく頑固な祖父に心が弱いからだと怒られていた。一方妹は駄菓子屋の看板娘。いつも比べられて辛かった。それから少しして大工の祖父が建ててくれた一軒家で、私は半一人暮らしを始めた。私が小学4年生の頃だった。ちょうど家庭科の授業で白玉団子の作り方を覚えたばかりで、いつもそればかり作って食べていた。真夜中になると祖父母の家から妹を連れて母が帰ってくるが、それまでは自由に過ごせた。今思い返しても幼少期で一番幸せな時間だった。

 私が中学3年生の時母は再婚し、南国から北国へ引っ越した。一体どうやって知り合ったのかは知らない。正直、引越しは嫌だったが、ついていくしかなかった。新しい父親は外面はとても良かったが、実際はアル中の酒乱で、私のリスカ癖を知って母をなじった。私がこんな状態なのを知っていて連れてきたのか、騙された、というのが父の言い分だ。お酒を飲んでは物に当たり、自殺を匂わせ、家には毎日怒声が飛び交った。私は遠く離れた高校で寮生活を始めることにした。そこで恩師と出会った。恩師はわたしを自慢の生徒だと言ってくれた。休みがちだった小学校でも、ちょっと荒れていた中学校でも、誰にもそんなことを言われたことがなかった。私は衝撃を受け、中学校時代から止められなかったリスカを止めた。恩師には今でも大変感謝している。

 紆余曲折を経て、その後私は看護学校へと進んだ。母がW不倫したのはその頃だ。相手は20代の医者。私の方がよっぽど歳が近かった。その医者は私に挨拶に来た時、今の妻と別れて母と結婚するつもりだと言った。父は前述の通りアル中のモラハラクソ野郎だったので、他に良い人がいれば離婚するのもいいだろうと私は思った。私はただ順番だけは守れと母に言い聞かせた。付き合うのは、今の父と離婚してからだと。浮かれた母はそれを守らなかった。学生の私に電話をしてきては、浮気相手がいかに紳士的でどうこうだとか、ホテルに行く時の下着の色がどうこうだとか、楽しそうに話していた。その間に父親は興信所で母の浮気の証拠を揃え、弁護士を立てて離婚へと動いた。母は大わらわで私を付き合わせて弁護士を探したが、取り合ってくれるところは当然ながらどこにもなかった。何故か今回も妹には離婚理由は伏せられた。不倫相手に逃げられ、失意に暮れ飲み屋で一人飲んでいた母を慰めてくれた男が今の父である。私は三番目の父と何度か面通しはしたが、今の実家には一度も帰ったことがない。もう母に付き合わされるのはうんざりだった。上京を決め、夫と出会った。私の夫は、一回り年上で、バツイチで、私と結婚した時には前の奥さんと買った家のローンがまだ残っていた。母は私の結婚に反対したが、男のことで、母にだけは何も言われたくなかった。私は親に黙って結婚した。当然ながら、そんな私を見る親族の目は冷たかった。妹の結婚式以来会っていない。妹の結婚は誰からも祝福され、すぐに子どもも二人産まれた。誰からも愛され、要領が良く、自信家で、可愛い妹。実父のDVも、母親の不倫も知らず、大事にされて生きてきた妹。

 私の家は看護師の家系で、母も妹も叔母も従兄妹二人も看護師である。看護師という職業はキャリアが全てで、潰しが利かない。女の職場なので、心を病むほどにいじめもひどい。6年のブランクはもはや致命的である。私は母をあまり好きではないし、妹にもひどい劣等感がある。立派に看護師をしている二人に負けたくない一心で看護師にしがみついていたが、もう限界だ。

 つい最近、死のうと思い立った。このままでは夫に経済的にも精神的にも迷惑をかけてしまう。親には頼れない。何でも話せるような友達もいない。今は何より夫に嫌われるのが怖い。夫は今はまだ私を愛してくれているが、この先その気持ちが何年続くかわからない。それなら夫に愛されたまま今死にたい。もう生きているのがつらい。離婚して死のうと思っている。致死量の睡眠薬も持っている。何日もかけて離婚の話をした。夫は決して首を縦に振らなかった。最後にはあんまりそういうことを言わないでほしいと懇願された。夫にも今は余裕がないのだと言われた。そして私は夫の持病である慢性腎不全がとうとうステージ5になったことを知った。私のうつがひどく、言い出せなかったらしい。私も一応看護師の資格を持っているのでそれがどういうことなのかはよくわかった。ステージ5の慢性腎不全。透析か、腎移植か、そろそろ考えて選ばなくてはならない段階だ。

 私は迷わず私の腎臓をあげると言った。先行的腎移植というやつである。私は夫の慢性腎不全を承知で結婚したし、結婚したときから、いずれその時が来たら夫に私の腎臓を提供しようと思っていた。透析と腎移植なら、後者の方が圧倒的に予後がいい。塩分制限や水分制限などもしなくていい。私はメンタルは弱いが体は健康そのものだ。夫の状態を知った翌々日には夫のかかりつけ医の元に一緒に足を運び、腎移植の実績数が多い病院を紹介してもらった。予約日までの間に市役所で障害者手帳と更生医療の申請書類も揃えた。ずっと迷惑をかけてきた夫にやっと恩返しができる。もう何の役にも立てないと思っていた私にもまだできることがある。死ななくて良かった。生まれて初めてそう思った。夫は反対した。私から腎臓を一つ取り上げてしまうのに引け目を感じているようだった。怖くないのかと何度も聞かれた。少し面白かった。死ぬことも怖くないのに、腎臓を一つ無くす程度、何が怖いものか。

「あなたはうつ病だから、ドナーにはなれません」
 だからこそ、移植外来の先生にそう言われたときの絶望は計り知れなかった。私は飲んでいる薬も多いし、ドナーの基準値ギリギリまで太っているし、それを理由に難色を示されるのは予想していた。それなら早めに私の主治医と相談して薬を減らしてもらおう。運動も、看護師時代に腰と膝を痛めているのでなかなか大変だが頑張って痩せよう。人気の病院だから診療予約もなかなか取れない。どうせHLAタイピングやリンパ球クロスマッチにも時間がかかるし、各種の検査にも時間がかかる。その間に、精神薬を減らしてもらったり運動して痩せたりすればいい。そう思っていたのに、まさかその前段階ではねられるとは思っていなかった。頭が真っ白になった。
「他にドナーの候補はいないんですか?」
 その間にも移植外来の先生の話は続いていく。夫の両親は共に75歳以上と高齢であるし、夫の兄も輸血歴があり持病を抱えていて難しい。とうとう透析の話まで出始めた。透析をするつもりならわざわざ移植外来まで来ていない。移植外来の先生の目はもう完全に私を見ていなかった。見切りをつけられたんだ、と瞬時に理解した。私の主治医に許可を得られれば移植は可能ですか、と何とか言った。
「それでも判断するのはあくまで私です」
 頭がクラクラした。大変に強い口調だった。私のうつ病が問題で、私の主治医の許可を得てその問題が解決しても結局は移植外来の先生のご機嫌一つで決まってしまうのか。その場で泣いたら、これだからメンヘラは、と思われそうで必死に我慢したが、帰りの車の中では涙が止まらなかった。渋々と言った様子で移植外来の先生が書いてくれた二通の手紙。一通は夫の、もう一通は私の主治医への手紙。

 その足で夫の主治医の元に行き、意見を聞いた。移植の基準も病院によって違いがあり、同じように精神疾患を抱えたドナー希望者が別の病院で移植をすることができた例もあるので気を落とさないでと慰められた。

 私の主治医は、ドナーになることには反対しなかった。むしろどうしてドナーになれないのか不思議に思っているようだった。ただ、「私も意見書を送りますが、あなたもナースだった経験があるから、絶対に自分の意見を曲げないドクターがいることはわかりますよね」と言われた。悔しいがとてもよくわかる。

 うつ病はとても偏見が強い病気だ。うつ病で闘病中だと一言口に出しただけで就職を断られたことも、一度や二度ではない。私だってうつ病になりたくてなったわけじゃないのに、いつもうつ病が私の邪魔をする。

 次の受診日は一ヶ月後だ。もし断られたら、一ヶ月丸々時間を無駄にしたことになる。新しい病院を探したりなどしてもたもたしているとあっという間に一年過ぎてしまうのではないか、新たに臨床症状が出て夫が苦しい思いをするのではないか、透析になってしまうのではないか……と思うとどうしても焦ってしまう。
 今は不安で不安で仕方がない。
 だからどこかに吐き出したくて、これを書いた。
 似たような経験をしたという方がいないか、探したい気持ちもある。
 でも一番は、ただ応援してほしい。私たちも諦めない。だからこの手記がどうか誰かの目に留まって、私たちを応援してくれますように。

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