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濃尾地震考

先日、樽見鉄道に乗って根尾谷断層を見に行きました。震災や記憶などさまざまなことを考えました。
※震災の被害を伝える画像などを載せています。


濃尾地震

ゴォォォというすさまじい地鳴り

明治24年(1891年)10月28日午前6時38分
根尾谷を震源とする地震(濃尾地震)が発生。

推定マグニチュード8.0、震度7
日本内陸部で発生した最大規模の直下型地震であった。
(関東大震災:M7.9、阪神淡路大震災:M7.2、能登半島地震:M7.6)

東海地方を中心に
全国14万2千戸超の家屋が全壊・燃失
死者7,273名にのぼった。
※震度7の地域:根尾断層地域~濃尾平野北西部
 震度6の地域:福井・滋賀・岐阜・愛知・三重
 震度5の地域:京都・大阪~静岡・長野

この地震で、根尾水鳥地区では
垂直に最大6mのズレを伴う、長さ1000mにもなる断層崖が出現した。
(参考:能登半島地震では、輪島市西部で最大4m(暫定値)隆起したとされる)

また、根尾中地区では最大9.2mの横ずれ断層も生じている。

内閣府HPより 「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 1891濃尾地震」55頁

地震発生から9年後
明治33年(1900年)発表の『鉄道唱歌』に濃尾地震の影響が残されている。

♪名だかき金の鯱(しゃちほこ)は
 名古屋の城の光なり
 地震のはなしまだ消えぬ
 岐阜の鵜飼も見てゆかん

地盤の強度と震度

<家屋全壊率80~100%の地域>
 ずれ動いた断層直上の地域
  福井県大野市と岐阜県本巣市にまたがる温見地区
  岐阜県本巣市の根尾地区
  岐阜県山県市の梅原地区
 沖積平野(地盤の緩い)地域
  大垣市・岐阜市・一宮市(愛知県北西部)を囲む地域
  ※岐阜県内では、岐阜市・大垣市が壊滅状態
  ※愛知県内では、中島郡(一宮市・稲沢市・清須市)の被害が甚大

同上、28頁

<火災の被害>
岐阜市街地は火災で焼失した家屋数が、地震で倒壊した家屋数を上回った。
羽島郡笠松町は震災直後に大火となり、壊滅状態となった。その火の粉が北西の強風に乗って、木曽川を挟んで対岸の北方村(愛知県一宮市北方町)に燃え広がった。
その他、岐阜県関市、愛知県西春日井郡(枇杷島付近)でも火災が発生。

地割れや液状化現象で、消火用水の確保ができず、ただ燃えていく様子を見ているしかなかったという記述もある。

同上、37頁

<濃尾平野の地盤>
震度は震源地から離れるほど、単純に小さくなると思っていたが、実際は、離れていても強い揺れに襲われる場所がある。(濃尾地震の場合は、家屋の被害率から震度を推定)

濃尾平野は、美濃南西部から尾張北西部、伊勢北部に広がる平野で、木曽三川が運んできた大量の土砂が100万年以上かけて堆積してできた。地盤としては軟弱な地域であるため、濃尾平野北西部の地域が壊滅的な被害を受けたと考えられている。

同上、6頁
現在、慰霊碑や被害記録のある地域(一部)
☆マーク箇所(自作)

また液状化現象の跡とされる砂脈(噴砂跡)も愛知県北西部でいくつも確認されている。(稲沢市・清須市など)

軟弱な地盤は、液状化現象とも重なる。
つまり、地震の「揺れ」と同時に「液状化」が起こり、地割れ・地すべり・崩壊とともに、水や砂が噴き出し、建物が沈下するなどの災害に発展しやすい。
※濃尾平野では、濃尾地震以外でも、1586年の天正地震、1944年の東南海地震、1945年の三河地震などによる、砂脈が発見されている。

以下、濃尾地震で液状化が記録された地域図、南海トラフ地震における液状化想定マップからも、濃尾平野に位置する地域は、震源地と同じ距離に位置するほかの地域に比べて、強い揺れに襲われ、多くの家屋が倒壊する可能性があることが分かる。

内閣府HPより 「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 1891濃尾地震」59頁
南海トラフ地震被害想定マップ 液状化地域(ArcGIS)

補:2024年1月1日に発生した能登半島地震でも、石川県・富山県・新潟県・福井県の4県32市町村で1700か所以上もの液状化があったと調査によって分かっている。自分の住んでいる地域がどのような場所なのか、今一度確認する必要がありそうだ。

数値と個人

亡くなった方々はいつのまにか数にまとめられていく。死者は7,000人を超え…と簡単に言ってしまう。でも、その一人ひとりに名前があって、具体的に毎日生活し、家族や友人がいた。

濃尾地震は、近代国家を目指して邁進していた明治時代、初めて日本を襲った大震災である。明治政府は今後に備えるべく、震災の翌年(1892年)に震災予防調査会を設けるなどし、地震の調査・研究も本格的に始まったとされる。

しかし、この地震で亡くなった人々への慰霊を記す記録や施設も、国家としては作られなかった。
(北原糸子『震災と死者-東日本大震災・関東大震災・濃尾地震-』(筑摩書房、2021年)240頁 参照)

被害状況、断層の出現などをデータとして調査・研究することは重要である。ただ、データの中の○○名や△△戸は、みんなその日まで生きてきた人たちであり、誰かが日々生活していた場所であることを、忘れてはならない。

岐阜県大垣市に、濃尾地震で亡くなった人を慰霊する震災紀念堂がある(1893年、真宗本願寺派僧侶の天野若圓によって建立)。ここに岐阜県の犠牲者4,357名(死者数は合致していない)の名前を記した「死亡人台帳」が収められている。
そこでは、一人ひとりの「生年月日・町村名・戸主との続柄・姓名」がつづられ、データ上の犠牲者ではなく、個人としての死の存在が刻まれている。
(同上、297頁 参照)

補:愛知県一宮市萩原町 宝光寺境内 震災紀念碑
旧萩原村では、60名以上の方が亡くなった。

明治36年(1903年)当時の住職と村民らによって建立された
「明治24年陰9月27日激震」とある。
この日は「1891年10月30日」あたりらしい。
陰暦と太陽歴とのズレ?

寺田寅彦と天災

寺田寅彦(1878~1935)は、日本の物理学者である。また、数々のすぐれた随筆などを書いたことでも知られ、「天災は忘れた頃にやって来る」は寺田の言葉とされる。

1891年、寺田寅彦は13歳、高知県にいたと思われるため、濃尾地震と直接の関係はないが、災害への論考を数多く残している。
災害(ここでは地震)に関連する記述をいくつか書き留めておく。
(寺田寅彦『天災と国防』(講談社学術文庫、2011年)の中から抜粋)

<天災の論考>
『天災と国防』(1934年11月)
「しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという事実である。」

『静岡地震被害見学記』(1935年9月)
「…非常時の用心を何ごともない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果の現われる日がいつかは来るという事実だけは間違いないようである。」

『震災日記より』(1935年10月)
九月一日(土曜)
「椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない以上の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありありと想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。」
「無事な日の続いているうちに突然起こった著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる。」
※1923年9月1日 関東大震災が発生した直後の様子を記したもの

「船に乗ったような」という表現は、濃尾地震発生時に旧根尾村の住人だった方の証言にも出てくる。「10日ぐらいは船に乗っとるようなもんで、ゆさゆさゆさゆさと1分間と止まっとらへんなんだ」

普通の日、記憶される日

メモリアル

ある一日が、忘れられない、刻み込まれる日になる。
刻み込まれたその日がふたたび、ある一日になるのに、どれくらいの時間が必要なのだろうか。
つまり、刻まれた日は、どのくらいの早さで薄れていってしまうのか、ということでもある。

例えば…
133年前の濃尾地震(1891年)
 10.28を特別な日だと思う人はいない。
 体験を証言できる人はいない。
100年前の関東大震災(1923年)
 9.1は防災の日として残っているが、その由来を知らない人も多い。
 体験を証言できる人はいない。
 2023年は震災100年とあって、報道も多かった。
29年前の阪神淡路大震災(1995年)
 1.17の日付を覚えていない人も増えてきた。
 その日は新聞やテレビなどで「あれから〇年」と報じられる。
 まだ刻まれた日として人々の中にある。
13年前の東日本大震災(2011年)
 3.11の日付は多くの人の中に深く刻まれている。
 震災の被害だけではなく、今も帰郷できない場所がある。

心理的瑕疵

学部生の頃、民法の講義で「心理的瑕疵」を学んだ。
このとき先生が、法的な要件ではなく、人の心理として、どのくらい時間がたてば抵抗が薄れるだろうかと、質問した。
5年、10年、50年、100年…たしかに、はっきりとここまではダメ!という境界線は分からない。

通っていた大学は元寇(1274年と1281年)で多くの人がなくなった場所の近くにあったが、先生が、元寇に対して心理的な抵抗を示す人はもういないよねと言った。たしかに。

人は現代になっても、見えないものの存在をどこかで感じている。
その存在をどこかで感じている(感じられている)間は、あの日、あの出来事は、記憶の中から消えることはないのかもしれない。

災害にまつわる話

説話・伝説

①『宇治拾遺物語 下』「唐に卒塔婆血つく事」
毎日大きな山に登り、頂上の卒塔婆を確認しているおばあさんがいた。
卒塔婆をぐるりと見たら、何もせずに帰っていく。
これを不思議に思った村の若者たちが理由をたずねると…
先祖代々の言い伝えで
「この卒塔婆に血が付いたら、この山が崩れて深い海になるだろう」
とあり、山のふもとに住んでいるため、心配で見に来ているという。
若者たちや村の人は、理由を知って笑いものにした。

若者たちは、卒塔婆に血をつけて反応をうかがった。
すると、おばあさんはあわてふためいて
村の人に「すぐに逃げろ」と伝えて、自分の家族一緒に村から避難した。

若者たちがその様子を見て笑っていると
あたりが騒がしくなってきた。
どうしたのか…と思っているうちに、山が崩れ始めた。
村の人びとは必死で逃れたが、助からないものもいた。
こうして大きな山は崩れ、深い海になった。

②亀石伝説(奈良県明日香村)
現在南西を向いている亀石が、西を向くと
奈良盆地一帯は泥の沼と化す。

考察

災害や悲惨な出来事の記憶は、いずれ薄れ、忘れ去られてしまう。生きてそれを経験した人たちがいなくなれば、なおさら。
いかにして、大災害の恐ろしさや教訓を残せるのか。

その方法として、こうした説話や伝説を残し、本当にそうなるかどうかというよりも、人々に恐ろしいことが起こる可能性があるという意識をもたせようとしたのだろうか。

寺田寅彦の文章にも出てきたが、いつ起きるとも分からないことに本気になって備えるのは、平穏な日常の中でみたら滑稽で、周囲からバカにされることなのだろう。説話のおばあさんが、何百年も前からある言い伝えを本当に信じて、村人から笑われていたように。
自分も簡単に、あの若者たちの側にいってしまうだろうことを肝に銘じなくてはいけない。

誰しも「自分だけはなんとかなるだろう」と思ってしまう。
生きていることも、死んでしまうことも、たまたまのことではあるけれど
自分の直下で今日まで地震がないことも、たまたまのことではあるけれど
その瞬間はやってきて
その瞬間の行動は、日々の中にしかない。





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