190120槙野_旅がわたしを眠らせる

旅がわたしを眠らせる


 屋根の下で眠りまともな食事をとり好きな仕事をして誰に殴られることもなく暮らしている。そのような現実をわたしはあまり信じていない。それがわたしの現状だと理解してはいる。同時に、どこかで嘘だと思っている。職場に行けば席があり、家に帰れば鍵が開き、道は行き先に通じている。それは現実と呼ばれている。けれども、わたしにとってはひとつの仮定にすぎない。わたしはそのように寄る辺ない。覚えているかぎりずっとそうだ。

 どうしてか知らない。花粉症であることと同じような、持って生まれた体質だと思う。だからわたしはよく夜中に目をさます。誰かがドアをノックし、あるいはノックさえせずこじあけて、わたしを強制収容所に連行する。たとえばそういう夢を見て起きるのである。

 たかが夢だ。わたしは慣れている。台所で水を飲む。そしてまた眠る。眠るために努力する。夜は毛布をはさんであいまいにわたしにまとわりつく。わたしはいつも頭まですっぽりと寝具に埋まり、眠りの気配を待つ。誰かと寝ると必ず「どうやって息をしているの」と訊かれる。布と布の重なるところをうまくずらして、そこから空気を吸うんだよ、とわたしは答える。

 わたしが深く眠れる場所はこの世にひとつしかない。移動している乗り物の中である。新幹線、特急列車、飛行機、高速バス、そういうものだ。どこかへ向かっているもの。ちょっとした遮蔽物があれば大破するような、脆くて速いもの。その中にいればわたしは頭にまで毛布を巻きつける必要がない。乗り物が毛布になる。わたしはとても気持ちよく眠る。

 もちろんそれはうたた寝にすぎない。正しい睡眠ではない。チョコレートが食事にならないのと同じで、乗り物の中の睡眠で生きることはできない。でもチョコレートは甘い。甘くていいものだ。

 そういうわけでおよそ四十八時間以上の空白の時があればわたしは家を留守にする。連休ともなればうんと遠くへ行く。知らない土地を歩く。知らない土地は夢の中のような感触で、わたしはうっとりしてしまう。観光地でなくたってかまわない。人々の外見や話すことばが自分と違えば違うほどわたしはうれしくなる。街にはそれぞれ固有の作法がある。歩きかた、すれ違うときのしぐさ、道路の渡りかた。わたしはそれをじっと観察し、真似をする。挨拶のしかたも覚える。挨拶をするのはいい人だからではない。「わたしはこの都市で要請される最低限のコミュニケーション作法を身につけていて、突然銃をぶっぱなしたりしません」というメッセージである。わたしは東京にいてもどこかで「みんなが遂行しているルールが実はわかっていない」という気がしている。だから作法を知らない来訪者という立場はわたしに逆転した安心感をもたらす。

 知らない土地で、わたしは歩く。視線を上げると道の先の空に巨大な虹がかかっている。あるいは夜の闇に音楽が鳴り響き、人々が踊っている。海の向こうに火の手が上がる。

 旅先で空想した内容ではない。すべて実際に起きたことである。虹などそう珍しいものではない。人の流れに乗って夜の町を歩いて、それが祭りの日であれば、踊りの群れにかこまれたっておかしくはない。海の向こうに見えた煙は、あとで調べたら船の火事だということだった。

 こうしたできごとはまるで夢のように感じられるが、わたしにとってはふだんの生活も同じようなものだ。今までの人生でもらった合格通知や採用通知はみんな嘘だったんだと思っている。取り交わしてきた契約書はわたしの知らないところでわたしにわからない理由で破棄されたのだと思っている。明日出勤したらセキュリティにつまみ出されるのだと思っている。帰宅したら鍵が使えず別の人が住んでいるんだと思っている。友人たちにわたしの記憶はなく、あらゆるサービスにログインできず、区役所には戸籍がない。それがほんとうなのだと、どこかで思っている。もうすぐ休日が終わる。エアポート快速が東京駅に着く。わたしは目を覚まし、プラットフォームに立つ。階段を降り、別の階段を上る。上りながら、これから帰る住み慣れた下町の存在をどこかで信じていない。



執筆: 槙野 さやか (2019.01.20更新)
2009年より、短編ブログ『傘をひらいて、空を』を開始。「伝聞と嘘とほんとうの話」を織り交ぜたエントリーを投稿している。1977年、東京生まれ。Site:  http://kasasora.hatenablog.com/



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