忘れ得ぬ人々・第6回「1日だけの恩師」(後編)

大学4年のとき、母校の高校へ教育実習に行くことになった。教育実習の名目上の指導教授である古畑先生にご挨拶に行くと、わざわざ挨拶に来たのは君が初めてだと言われ、雑談をしているうちに、高校時代に影響を受けた深谷先生が、古畑先生の教え子だと知る。そのことが、私の教育実習を意外な方向に導いたのである…。

深谷先生は、私が高校を卒業した後、高校をやめて大学で心理学の先生になった。
ひとしきり深谷先生の話で盛り上がった。
「そうか、K高校か…。君、研究授業はいつかね?」
古畑先生は唐突に私にお尋ねになった。
「最後の週の金曜日です」
「よし、では君の研究授業に行くことにしよう」
ええぇぇ!ビックリである。そもそも名目上の指導教員なのだから、わざわざ研究授業を見に行く必要なんてないのだ。
「わざわざいらっしゃるんですか?」私は思わず聞いてしまった。
すると古畑先生がおっしゃった。

「私は今年度で、この大学を定年退職する。私はこの年齢まで、毎週金曜日の大学院の演習を1度も休講にしたことがない。それは私の誇りだ…。だが、君が金曜日に研究授業をする、というのなら、私は大学院の演習を休講にして、君の研究授業を聞きに行くことにしよう」
えええぇぇぇぇ!!重い!重すぎる!
長年古畑先生が築き上げてきた、大学院の演習の皆勤記録が、教育実習の研究授業ごときのために、定年退職を目前に途絶えてしまうなんてえぇぇぇ!
私は一気に汗が噴き出した。
「そ、そんな…休講だなんて…。いいんでしょうか?」思わず私は尋ねた。
「君が深谷君の教え子だって聞いたら、行かないわけにはいかないだろう」
古畑先生はにこやかに答えた。

さて、驚いたのはわが母校の先生たちである。
まさか、大学から偉い先生が研究授業を見に来るなんて思わなかったから、さあ大変!
校長先生なんか完全にテンパっちゃって、教頭先生と一緒に玄関の外に出て古畑先生をお出迎えしたり、校長室で上等のお菓子を出したりと、コントのようだった。
さて、研究授業の方はというと。
教育実習生たちの中で一番最後の研究授業だったこともあって、たくさんの先生方や実習生たちが見に来てくれた。そして大団円を迎えた。あとにも先にも、あんなに充実感のある授業ができたことはない。
授業が終わり、校長室にいらっしゃる古畑先生にご挨拶に行った。

「僕はこの方面には門外漢だがね。…でも、聞いていてよく分かったよ。とてもおもしろかった」

私はホッとした。この場に、深谷先生もいらっしゃればなあ、と思った。
そして帰り際、
「来てよかったよ。本当によかった」
そう言って、古畑先生は玄関をお出になった。
「ありがとうございました」
私は古畑先生の後ろ姿に、深々と頭を下げた。
その横で、校長と教頭も、深々と頭を下げていた。

私はこの一連の顛末を、深谷先生に手紙でお伝えした。深谷先生からは、古畑先生のことや高校で教えていたときのことを懐かしむお返事をいただいたと記憶する。

古畑先生とは、その後お目にかかることはなかった。

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