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追悼・鈴木健二さん

NHKのアナウンサーだった鈴木健二さんが95歳の大往生を遂げたことをニュースで知り、さまざまな思い出がよみがえってきた。

今から考えるとほんとうにおかしな小学生だったと思うが、NHKの『歴史への招待』という番組が好きだった私は、司会の鈴木健二アナウンサーが台本も何も見ずに、カメラの前で蕩々とお話しになる姿に憧れた。細かい数字までそらんじていたのである。あとで聞くと、本番では決して台本を持たず、すべてのデータを暗記していたというのだから、なるほどほんとうのプロ意識というのはすごいもんだなと思った。

それからというもの、私は鈴木健二さんの書いた本を片っ端から読んでいった。いまでいう生き方のハウツー本のようなものが多かったが、軽妙なタッチの文章から、心を揺さぶるような感動的な文章まで、鈴木健二さんはほんとうに多作だった。400万部の大ベストセラー『気くばりのすすめ』が刊行されたのが1982年、私がまだ中学生になったばかりのときだった。私はそれ以前に、まだそんなに売れていない鈴木健二さんの本をかなり読み込んでいたので、『気くばりのすすめ』により鈴木健二さんの本が一躍大ベストセラーになったことに、ほんとうに驚いた。

ある記事には、鈴木健二さんの略歴を次のように説明していた。
「東京の両国出身。戦時中に青森の高校に移り、東北大では美術史を専攻。終戦から7年後の1952年にNHKに入局した。…アナウンサーが顔を出して出演するスタイルの先駆けになった。…1978年の「歴史への招待」、1981年の「クイズ面白ゼミナール」が人気番組に。台本を手に持たない驚異の暗記力、古今東西に精通する博識で、お茶の間の支持を獲得。1982年にはクイズ番組の歴代最高視聴率42.2%を記録した。」

「青森の高校」というのは、旧制弘前高校である。鈴木健二さんは、旧制弘前高校~旧制東北大学の学生時代に阿部次郎の「三太郎の日記」を耽読した思い出を書いていて、『三太郎の日記』は、教養主義に憧れる当時の学生の誰もが読んだ本だと書いてあった。それを読んで、小学生の私も『三太郎の日記』という本のタイトルを初めて知り、読むことに挑戦したのだった。もちろんちんぷんかんぷんだったが、いま読み返すと、じわじわと心に迫ってくるものがある。

さまざまな本の中で、自分が数々の病気に見舞われたことを告白していた。これもある記事からの引用だが、「30代から糖尿病を患い、50歳の時には左の腎臓を摘出。80代でも敗血症や右頸部動脈瘤(りゅう)、腰椎狭さく症、蜂窩織炎(ほうかしきえん)など難病を経験したが、90歳を超えてからも精力的に著書を刊行していた」とある。私も50歳を目前にした頃に大病を患ったが、それでも90歳を超えて生き続けられるのではないかと勇気づけられる。

NHKの退職後はテレビに出演しなくなった。ある記事によると、「1988年の退職後は一転して社会事業に専念。熊本県立劇場館長となり、過疎で衰退した郷土芸能を完全復元して多くの村おこしを行い、また人間皆平等の精神で障がい者数百人を含む1万人の愛の大合唱「こころコンサート」を全国6ヶ所で企画制作した。98年青森県立図書館長に就任。読書を県民運動に高めて普及させ、自分で考える子になろうを旗印に、小学校を巡歴して読み聞かせ授業を行う。75歳を機に信条に従ってフリーターを宣言し、全ての職を辞した」この人生もまた潔い。この生き方は、私のロールモデルである。

昨年(2023年)、私は職場の公式YouTubeチャンネルで、自分の手がけたイベントについて画面に向かって説明をするという短い動画を制作した。そのときに何も見ずに画面に語りかけたのは、鈴木健二さんがテレビに向かって語りかけた、あのイメージに近づきたいと思ったからだった。当然のことながら、実際にはまったく及ばなかったが、これからも鈴木健二さんの生き方を目指したい。

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