あとで読む・第35回・法頂『無所有』(東方出版、金順姫訳、2001年)

2008年11月から1年3か月ほど韓国に留学した。私が39歳から40歳にかけての時である。留学といっても韓国語は当初まったくできず、入国した3日後から大学の中にある語学学校に入り、1年間みっちり韓国語を勉強した。
なんとか韓国語で意思疎通ができはじめた頃、私は人に会うたびに「韓国で、これは読んでおくべき随筆とかはありますか?」という質問をした。韓国語で読み書きや意思疎通が少しできるようになると、自分の中の本の虫が騒ぎはじめ、韓国語の本を1冊読んでみたいという欲求に駆られたのである。
多くの人が「それならばポプチョンスニムの『ムソユ』がよい。名文だ」と答えた。「ポプチョンスニム」とは「法頂」という名前のお坊さん、という意味で、「ムソユ」とは「無所有」のことである。あまりに多くの人からこの本を薦められたということは、韓国における国民的な随筆家なのであろう。私は書店に行って、『無所有』という本を入手した。
これで韓国語を読む練習をするつもりだったのだが、韓国語で随筆を読むというのは、実はなかなか難しい。独特の表現や言い回しが使われていたり、社会背景を知らなければ理解できなかったりもするので、読むのに苦労する。私がふだん読む機会が多い「論文」だと、漢語の熟語に由来する単語が多くを占めるので、たとえそれがハングルだとしても、個々の単語を漢語の熟語に置き換えて読むことができ、論文的な言い回しはだいたい決まっているから、読み進めていくことにさほどのストレスはないのだが、随筆はそういうわけにはいかない。読むのが億劫になり、すぐに挫折してしまった。
しかし未練は残る。書店で同じ法頂スニム(=お坊さん)の『一期一会』と題する随筆集を見つけ、性懲りもなくその本も入手した。さらにさらに、『小説「無所有」』という法頂スニムの評伝小説もでいることを知り、それも入手した。しかしいずれも積ん読である。どうして、絶対に読まないとわかっていながら買ってしまうのだろう。自分がイヤになる。
日本に帰国してしばらくたった頃、『無所有』が翻訳出版されていたことを知る。なんだ、それがわかっていたら最初からそれを読めばよかったと、さらにその本も買った。これで法頂スニム関係の本は4冊になってしまった。「無所有」どころか、モノが増えてしまったではないか!なんという矛盾!
『無所有』の最初の頁には次のようにある。
「私たちは必要に迫られていろいろな物を持つようになるが、時には、その物のためにあれこれと心をわずらわすことになる。つまり、何かを持つということは、一方では何かに囚われるようになるということである。それゆえ、たくさん所有しているということは、それだけ多くのものに縛られている側面も同時に持っているということになるのである」
おっしゃるとおり。積ん読本によって自分の心が囚われてしまっている。
出張で韓国に行くと、あれも必要これも必要と、いつも荷物が重くなる。「三上先生のカバン、いつも重いですね」とある韓国人研究者が言うと、それを聞いた韓国人のベテラン研究者の先生が「それは欲の重さだよ」と指摘され、返す言葉がなかった。言われてみれば、その先生はどんなところに行く時も軽装である。そういえば最初に法頂スニムの本を薦めてくれたのはその先生だった。教えがちゃんと守られていた。

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