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自閉症スペクトラム障害を寛解した者が思う、「定義」は必要なのか。

 てなわけで、noteというものに手を出してしまいました。
これが一体何なのかあまり理解はしてないけど、書いてみようと思うんだ。
もしも、この文章に変なところとか理解できないところがあったら、とても申し訳ない。

honndai


私たちは、近年さまざまな情報や学問を学ぶことができるようになった。そのメリットだけで見れば、人類の発展に貢献しているや、高次元的存在に近づいていると考えることができるかもしれないが、偏見や差別も自然と助長してしまうことにも目を向けなければならない。

なぜ、差別を助長してしまうのか。

その答えは至ってシンプルである。なぜなら、「定義」をしたがるようになったからだ。簡単に言えば、曖昧であることが不安なのである。たとえば、まだ人類が発展してままならない頃では、この世に起こること全てが、未解のものだった。例を挙げるとするならば、豪雨や飢饉などがあげられるだろう。
これらを、定義するまでの科学的根拠を揃えることができず、起こるものであるという抽象的な物が生まれた。それは、予知できないものだと考えられ、人々は何度も障壁にぶつからざる負えなかったのである。だけど、ここには幸運なことにも曖昧性という物が存在した。この曖昧性は、たしかに先に述べたデメリットはあるものの、人々に可能性を享受するのである。
ここだけ聞いて、自分なら理解ができないから具体例を入れよう。
ある村民Aが村に住んでいました。そこには、たまに嵐や地震が起きるそうだ。だけども、起こらないことももちろんある。村民Aならどう考えるだろうか。

私なら、こう考える。
「今日は、あの厄介な事が起きないに賭けて普通の生活を送ろう。でも一応、備えて余分な分を育てよう」と。
ここまで読んで、頭の良いかもしれない読者なら気づくであろう。曖昧性には、断定がない。そして、良い意味でも、悪い意味でも可能性が潜伏している。

 そして、一番最初に戻ろう。なぜ、助長してしまうのか。
定義は、可能性をつぶしてしまうからである。
そんな、定義をする必要は大切なのだろうか。英語勉強に関しても同じことが言える。単語帳をつかって、テストを受けた人も読者の中で多いと思う。こんな経験をしなかっただろうか。「この単語。この意味でも正解なのになあ。」と。実際私は、この考え方も正しいと思う。なぜ英単語に、意味を断定して根付けてしまうのか。その一つに理由として考えるのは、英単語一つに対応する日本語の多さである。だとしたら、一つの単語がこういう意味もあると軸を作ったうえで単語の意味は、その軸に考えさせる事が必要なのではなかろうか。。と、つまり抽象的思考の大切さとも言える。

そして、最後に病気について語ろう。
私は、以前に自閉症スペクトラム障害と診断された。
今になって、その事に酷く苦しめられている。その背景として、自分が病気であると定義をしてしまっているからであろう。
幸運なことに私は、親から受けた教育の中で「あなたは普通なのよ。病気なんか関係ない。」と育てられてきた。それこそが、私を不登校という負のスパイラルから抜けださせてくれたのかもしれない。定義すると、私自身が自分を病気であると、狭義的な集合の中でとどめてしまい、自分は病気だから何もできないという自然と自己暗示が起きてしまう。それこそが、寛解から遠ざけうる。
抽象的思考は、心理的に起きる障がいに対する効果はあるのかもしれない。

と思った、今日この頃でした。ここまで、読んでくれた読者はいないと思うがいたらありがとうございました。と述べる。

  1. はじめに:「note」という新たな体験が始まった2. 学びのメリットとデメリット:情報の学習が差別を助長する?

  2. 曖昧性の意味:予測不可能な事件に対する可能性を考える

  3.  定義の罠:無意識の病気との闘い





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