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本山派先達修験寺院十玉坊の再興に伴う霞範囲の検討ー笹井観音堂の動向も踏まえてー

はじめに

前回の投稿「昔話から見た修験寺院」で本山派先達修験寺院十玉坊の廃絶と復興について先行研究・史料に沿って記述した。
北条氏照書状と聖護院門跡御教書を合わせると十玉坊は再興にあたり聖護院門跡から2通、氏照から1通の霞安堵状を受給したのがわかる。その内、聖護院門跡御教書は1点が伝わる。
今回は、2点の史料を基礎としながらも十玉坊と霞間抗争を繰り広げた本山派先達修験寺院笹井観音堂の文書「篠井家文書」も加味しながら十玉坊の霞展開と笹井観音堂の動向を検討して当時の霞範囲を復元してみたい。

(1)本山派先達修験寺院十玉坊の再興

本山派先達修験寺院十玉坊は、天文後期に水子に境内地移転後、一端、後継者不在によって断絶したが天正7年に清戸郷芝山にて再興した。
寺院再興にあたり聖護院門跡と滝山城主北条氏照から霞安堵状を受給して支配運営の体裁を整えた。2点の文書を以下、列挙する。


十玉坊最後の境内地だった難波田城(埼玉県富士見市)

文書1 天正7年(1579)2月3日 十玉坊宛 北条氏照判物「十玉院文書」
「武州の内、前々水子に境内地を置いた十玉坊が断絶に及んだにつき今般改めて芝山に十玉坊再興の由もっとものことである。入東・新倉の郡で氏照の領分における年行事職は聖護院殿の御証文に任せ申しつける。後日、書状を出す。
           天正七年庚辰
              二月三日 氏照(花押)
              十玉坊」

文書2 天正7年8月7日 十玉坊宛 聖護院門跡御教書「上田友吉家所蔵文書」
「入東郡併せ新倉郡年行事職の事は十玉坊由緒だと紛れもないことであるところ、近年、無主の地、同然の旨(は)とんでもないことである。いわゆる彼跡(十玉坊後継者)を相続させるのを(聖護院門跡から)仰せつけられた上は、これ以後、全領知させるので忠節奉公の旨、聖護院門跡が仰せ出しである。
        天正七年八月七日 法印(花押)
                 僧都(花押)
              十玉坊」

十玉坊から見て上位権力より霞支配の正当性を示す「明白な証文」を受給できたが同坊にとって入東郡の実効支配は盤石では無く住職不在が大きく影響した。

十玉坊と笹井観音堂を支配した北条氏照の居城滝山城((東京都八王子市)

(2)十玉坊の配下寺院を引き抜いた笹井観音堂

入東郡宮寺郷を伝統的に支配する高麗郡・杣保の年行事職本山派先達修験寺院笹井観音堂が文書2が発給された8月7日から下り同月27日に入東郡の触頭と帰属について聖護院へ質問した。

文書3 天正7年8月27日 笹井観音堂宛 聖護院門跡御教書「篠井家文書」
「武州杣保内併高麗郡年行事職の事は伝わる由緒によりいよいよ全領知されるものである。兼ねて又入東郡之内、三ヶ島郷衆分、同山口郷宝智坊の事も先々(の由緒)によって間違いない。いわゆる天文廿一年の(聖護院門跡からの)御下知の旨に任せて知行は間違いない。かの惣郡(入東郡)の義は、今度十玉坊後継者の由緒(伝統的霞地域)であるが近年、無主の地だと言上が(笹井観音堂から)あったので奉書を出した。その旨は(笹井観音堂が)存じられるべきだと聖護院門跡が仰せ出しである。
        天正七年八月廿七日 法印(花押)
                  僧都(花押)
                 佐々井
                   観音堂」

文書3は、笹井観音堂が聖護院から伝統的霞地域と入東郡の三ヶ島郷衆と宝智坊を配下するのを認定された内容である。三ヶ島郷は本来は、宮寺郷に包含される地域である。宮寺郷内には笹井観音堂配下寺院の本山派修験寺院玉蔵坊(後に竜蔵院)、本山派修験寺院金蔵寺が存在した。いずれも史料・歴代住職の世代数から見て開山が中世まで遡るのは確実である。
特に玉蔵坊は、江戸期に寺社奉行に笹井観音堂が提出した従属証明状には修験道に入門以来、一貫して主従関係にあると記述される。したがって、入東郡中の十玉坊の霞地域でも笹井観音堂の配下寺院が存在したのを示す史料でもある。金蔵寺に関しては江戸期に笹井観音堂との繋がりが深くなる。中世における動向は不明だが竜蔵院と笹井観音堂の主従関係の深さから同様な関係を構築したことが想定できる。


玉蔵坊住職の末裔中家が宮司を務める糀谷八幡宮(所沢市糀谷)
本山派修験寺院金蔵寺住職の歴代墓誌(入間市坊)

文書4 天正7年8月27日 笹井観音堂宛 聖護院門跡御教書「篠井家文書」
「武州の内、所澤衆分等の事は當知行は紛れも無いと(笹井観音堂が)弁明してきたので奉書を出した。万一、明白な証文を(聖護院へ)提出して訴えてきた族がいたら法にのっとり糾明すると聖護院門跡は仰せ出しである
          天正七
            八月廿七日 源要(花押)
                  慶忠(花押)」

文書4は、笹井観音堂が「所澤衆分」の支配について正当な証明を聖護院へ提出したので認定された文書である。後半、内容について異議を唱える者が笹井観音堂の支配ではないとする「明白な証文」を聖護院へ提出したら裁定するとも命令を出している。

さらに笹井観音堂は、北条氏照へも霞安堵状を申請して在地権力からも霞支配の正当性を確立する行動を取った。

文書5 天正8年(1580)6月7日 笹井観音堂宛て 北条氏照判物 「篠井家文書」
「武州の内所澤衆分等の事は、聖護院門跡の御教書に任せ沙汰あるべきものだ。もし違背の族についてある場合は彼(聖護院門跡御教書)の証文の文言において京都に沙汰あるべきものである。
             天正八年庚辰
              六月七日 氏照(花押)
                佐々井
                  観音堂」

文書5は、笹井観音堂が氏照から所澤(埼玉県所沢市)に在住する山伏支配を安堵された内容である。
所澤に在住する笹井観音堂の山伏は宝智坊なのは文書3で確認できる。しかし、笹井観音堂は「所澤衆」の掌握を図っているから宝智坊以外にも支配対象の山伏がいたのを示している。
所沢市における修験寺院は十玉坊の配下寺院で占められる。具体的には本山派修験寺院福泉坊(久米)・玉宝院(安松)・大学院(坂の下)・龍蔵院(本郷)である。4寺院とも十玉坊への従属が史料で確認できるから笹井観音堂の影響は受けていない。
4寺院以外の入東郡在住の山伏または修験寺院が笹井観音堂の配下となったのが確認できるのが文書4・5である。

ここまでの文書3・4・5を合わせると、入東郡宮寺郷は笹井観音堂の伝統的霞地域であるが山口郷の宝智坊は、文書3が初見である。そして文書4・
5では「所澤衆分」の支配認定と確立を笹井観音堂は図る動きが見れる。
入東郡は十玉坊の伝統的霞地域である。十玉坊が断絶中・再興初期に笹井観音堂が入東郡の支配浸透を図っているのは、笹井観音堂が十玉坊の配下寺院および在住の山伏を引き抜いたからと見られる。
文書4で聖護院は、「所澤衆分」の支配を笹井観音堂に安堵しつつも今後、支配を否定する「明白な証文」が他者から提出されたら訴訟による解決を図ると記述する。
宝智坊は文書3の段階で笹井観音堂に帰属が確認できるが聖護院の安堵状受給以前から断絶中の十玉坊から同坊を引き抜いた。以降も、所沢地域の十玉坊配下山伏に笹井観音堂への従属を呼びかけ、彼らから承諾を得たので聖護院へ認証を得たのが一連の流れと言える。

文書5で北条氏照から「安堵状の内容に違反する者がいたら聖護院門跡御教書を持参して訴えるように」と訴訟解決手段まで笹井観音堂は記述させている。
文書4の内容と合わせると、笹井観音堂は、十玉坊から配下寺院と山伏を引き抜いたばかりであり、まだ支配浸透に至っていない。十玉坊から支配の「明白な証文」によって否定される事態を笹井観音堂は憂慮していたの3点の文書から見て取れる。
笹井観音堂は、十玉坊が後継者不在のため断絶していたのを隣接する年行事職寺院のため早い段階で知っていたはずである。それを聖護院へ確認するのと同時に宝智坊を始め入東郡の十玉坊の霞へ進出を企図したのが「篠井家文書」から言える。

さいごに

今回は、前回の投稿で触れた十玉坊の断絶と再興から笹井観音堂の動向も踏まえて十玉坊の再興時における霞情勢を考察した。入東郡における十玉坊配下山伏は、笹井観音堂に従属した者もいれば拒否して留まった者もいたのを確認した。具体的には宝智坊以外にも所沢地域の山伏を引き抜いていたのが「篠井家文書」から判明した。
十玉坊側も後継者不在だと聖護院へ報告を上げており、後継者を確保できない点は上官から厳しい叱責を受けた。一方で聖護院は入東郡年行事職と霞地域は十玉坊が支配すると笹井観音堂へ通達しており霞間秩序維持も図っていた。そこで、笹井観音堂は、十玉坊配下山伏を引き抜きにあたり「篠井家文書」に記述されるように勧誘対象から承諾を得る点を重視して強引な勧誘によって聖護院から不興を買うことを恐れた様子も見て取れた。
しかし、十玉坊に留まる修験寺院も多く、福泉坊は江戸期において地域から敬意を得ていたし、玉宝院も地域において重きを成した。十玉坊は断絶と再興の動きの過程で霞地域を失うことはあっても維持した地点を固め江戸期を迎えた。
本稿では、中世のおける十玉坊と笹井観音堂の動向を見たが配下寺院の動きが確認できたから考察可能であった。地域の修験を検討する際、配下寺院の史料も視野に入れなければ全体を掴むのは困難であるとも記述しておきたい。




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